アミン・ジェジェアミン・ジェジェは、ハダ・ナラ氏女真族。建州女直酋長ヌルハチ (後の清太祖) の元妻。
略歴成婚→「太祖招撫扎海」を参照
明万暦15年1587に渾河フネヘ部北方の洞ドン城を攻略したヌルハチは、ハダと姻戚関係を結ぶことで勢力拡大を図ろうと考えた。そこでハダのダイシャンに求め、同16年1588旧暦4月に娶ったのがアミン・ジェジェである。 アミン・ジェジェは実兄ダイシャンにつきそわれ、洞ドンの地でヌルハチに帰順し、婚嫁した。その数箇月後にはイェヘからモンゴ・ジェジェがヌルハチに嫁ぎ、さらにダイシャンの姉がイェヘ東城主ナリムブルに嫁いだことで、北のイェヘ、南の建州、それに挟まれたハダの三国の間で三重の政略結婚が成立した。 誘拐ところがそれから三年経った万暦19年1591、ダイシャンが訪問先のイェヘの地でナリムブルにより暗殺され、『三朝遼事實錄』に拠れば、兄の死を嘆き悲しむアミン・ジェジェもまたナリムブルによって拐かされたという。ヌルハチは再三にわたってアミン・ジェジェを返すよう求めたが効いなく、開原城の明朝官吏に頼み込んで返還を求めさせたが、ナリムブルはそれにも応じなかった。[6] これと前後してナリムブルは、ヌルハチを服従させようと領土の割譲を求めたが、ヌルハチは聴き容れず、ヌルハチとイェヘとの関係はこれを境に急激に悪化し、ナリムブルはついに武力を恃んで実力行使に出ようと扈倫フルン諸部を糾合した。 →「富爾佳斉大戦」も参照
考察清代史料には、アミン・ジェジェが子をもうけたとも、いつ死去したとも一切記載がなく、唯一の記述は洞ドンの地でヌルハチに帰順したということだけである。そのため、婚嫁から僅か三年足らずでイェヘに誘拐されたという『三朝遼事實錄』の説には信憑性があると言える。[2] 清代史料にアミン・ジェジェの「その後」について記述がみられないばかりか、ヌルハチが明朝征討を天に誓った際に書かれたいわゆる「七大恨」にも、「北關老女」について書きながらアミン・ジェジェについては一言も触れていないことについて、和田清は、それがヌルハチにとっての、延いては清朝にとっての醜聞であり、歴史からの抹殺の対象となったからではないかとしている。[2] 脚註典拠註釈文献實錄『清實錄』
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