和田清
和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年6月22日)は、大正後期から昭和前期にかけての東洋史学者。 経歴神奈川県高座郡鶴嶺村(現在の茅ヶ崎市)の豪農の家に生まれる。第一高等学校を経て、1915年に東京帝国大学文科大学史学科東洋史学専攻を卒業、大学院を経て、中央大学予科及び東京帝国大学講師となる。1924年から欧米や中国に留学、帰国の翌年の1927年に東京帝国大学助教授となった。折りしも、留学中に東京帝国大学における東洋史学の基礎を築いた白鳥庫吉・市村瓚次郎が定年退官を迎え、世代交代の最中にあった。和田は池内宏・加藤繁とともに新しい東洋史学科の中心的な地位に立つことになる。1933年に東京帝国大学教授となり、1939年には文学博士となった(論文タイトルは『明初の満洲経略』[1])。また、東洋文庫の運営に参加して満洲語・モンゴル語の資料収集に尽力し、後に専務理事を務めた。 池内・加藤より1世代若かった和田は戦時下で迎えた両者退官後の東洋史学科を支えた。また、1951年の定年退官後は東京大学名誉教授となり、次いで日本大学教授及び日本学士院会員となった。明清における中国の周辺地域、特に元滅亡後のモンゴルについての研究をライフワークとしていた。代表的な著作に『東亜史論藪』(1942年)、『中国史概説』(1950年)、『東亜史研究』満洲編(1955年)、同蒙古編(1959年)などがある。 1959年頃から体調を崩し、1961年には日本大学を退任し、1963年に死去。没後従三位勲二等が贈られ、故郷の墓所に葬られた。 著書
翻訳
記念論集参考文献
回想脚注
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