フランドル家フランドル家(フランス語:Maison de Flandre、ドイツ語:Haus Flandern、英語:House of Flanders)は、フランドル地方(現ベルギー北部から北フランスにわたる地域)を支配していた諸侯の家系。フランドル伯およびブローニュ伯を継承した。また、後にエノー伯、ラテン帝国の皇帝も継承した。フランス王家やイングランド王家と姻戚関係を結び、フランス王、神聖ローマ皇帝およびイングランド王との封臣関係や対立を通して勢力を広げ、維持した。 歴史始祖のボードゥアン1世の出自については不明であるが、西フランク王シャルル2世の娘と結婚した。また、次のボードゥアン2世はウェセックス王アルフレッド大王の娘と結婚し、以降のフランドル伯は「カール大帝およびアルフレッド大王の子孫」といわれるようになる。10世紀半ばまでは西フランク王家であるカロリング家やロベール家と敵対し、南部へ領土拡大していった。 しかし、3代目のアルヌール1世は、962年1月1日に後継者であったボードゥアン(3世)がサン・ベルタン修道院で病のため死去した後、西フランク王ロテールと臣従契約を結び、跡を継いだアルヌール2世の時代は伯家の勢力が弱まったとされている。11世紀にはボードゥアン6世がエノー女伯リシルドと結婚しエノー伯位を獲得、エノー伯位はボードゥアン6世の子孫へ、フランドル伯位は弟ロベール1世の子孫へと受け継がれた。エノー伯系は1196年に婚姻によりナミュール侯位をも獲得している。 フランドル伯系は、1119年に最後の男子であるボードゥアン7世が死去し、フランドル伯位はボードゥアン7世の従兄でデンマーク王家エストリズセン家出身のシャルル1世(善良公)に継承された。しかしシャルル1世は1127年に暗殺され、フランス王の介入により、はとこでノルマンディー公家出身のギヨーム・クリトンが伯位を継いだが、各地で市民との間に紛争が生じ、市民はロレーヌ公家のティエリー・ダルザスをフランドル伯として迎え入れた[1]。 ロレーヌ家最後の伯マルグリット1世は、11世紀以降同伯家から分かれたエノー伯家のボードゥアン5世(8世)と結婚し、フランドル伯位はエノー伯位ともどもかつてのフランドル家により継承された。ボードゥアン5世の子ボードゥアン9世(6世)およびアンリはラテン皇帝となったが、以降のラテン皇帝は妹ヨランドとフランス王子ピエール2世・ド・クルトネーの子孫に受け継がれた。一方フランドル・エノー伯位はボードゥアン9世(6世)の2人の娘により継承されたが、マルグリット2世の2度の結婚により、フランドル伯位はダンピエール家に、エノー伯位はアヴェーヌ家へと分割相続されることとなった。 フランドル伯位を継承したダンピエール家は婚姻により、ヌヴェール伯、ルテル伯、ブルゴーニュ伯、アルトワ伯をも獲得し、同家最後の伯マルグリット3世がブルゴーニュ公フィリップ2世と結婚し、全領土がブルゴーニュ公家に取り込まれるに至った。一方、エノー伯位を継承したアヴェーヌ家は婚姻によりホラント伯およびゼーラント伯位を獲得、同家最後の伯マルグリット2世がヴィッテルスバッハ家出身の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結婚し、エノー・ホラント伯位はヴィッテルスバッハ家のものとなったが、ヴィッテルスバッハ家最後の伯ジャクリーヌが1433年に全領土の支配権をブルゴーニュ公フィリップ3世に完全に譲渡し、かつてフランドル家の子孫が保持していた領地のほとんどがブルゴーニュ公家のもとに統合された。 系図フランドル伯
ブローニュ伯
脚注
参考文献
関連項目 |