フランツ・クサーヴァー・フィッシュラーフランツ・クサーヴァー・ニコラウス・フィッシュラー(Franz Xaver Nikolaus Fischler, 1770年5月21日 メスキルヒ - 1835年10月4日 ホルツェン城)は、ドイツの宮内官、傅育官、外交官、枢密顧問官。平民出身で1807年に貴族となり、フィッシュラー・フォン・トロイベルク(Fischler von Treuberg)に改姓した。爵位も最下級の免状貴族から、1809年男爵、1817年伯爵と昇格した。 生涯フュルステンベルク侯家に仕える森林官のフランツ・ヨーゼフ・フィッシュラー(1743年 - 1823年)とその妻カタリーナ・シュヴェンデマン(1748年 - 1819年)の間の長男。父方の系譜は17世紀のチロル生まれの先祖シーモン・フィッシュラー(1625年 - 1699年)まで遡ることが出来る。ディリンゲン大学で学士号を得た後、1789年同大学に『哲学の諸分野における命題について(Sätze aus allen Theilen der Philosophie)』と題した博士論文を提出し、哲学博士号を得る[1]。 初め帝国伯ケッセルシュタット家に宮内官として仕えた後、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯アントン・アロイスの宮内官に転じ、また傅育官として侯世子カールを教育した。さらにアントン・アロイス侯の未婚の妹マリア・クレセンティア侯女と恋仲となり、2人は侯の反対を押し切って貴賤結婚をした[2]。この結婚に際し、1807年5月22日付でホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家より貴族(免状貴族)に列せられ、「フォン(von)」の使用を許された。侯の義弟となった後は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家及びその親族・姻族であるホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯家、ザルム=ザルム侯家、ザルム=キルブルク侯家の4侯家共同の政治交渉役・外務責任者(臨時代理大使)を任された。フランス皇后ジョゼフィーヌの親友だったアントン・アロイス侯の妻アメリーの援護を得てライン同盟参加交渉に入り、4侯家を陪臣化の脅威から救い、ライン同盟内の主権国家の統治者の地位を確保した。 1809年6月8日付でザクセン=コーブルク公家より、1810年5月10日付でジグマリンゲン侯家より、それぞれ男爵位を授与された。1813年、妻がジグマリンゲン侯家との間で結んだ相続協定に伴い、ホルツェン、アルマンスホーフェン(Allmannshofen)、ドルイスハイム(現メルティンゲン南部)、ヘレツリート及びオスターバッハ(Osterbach)の5つの荘園(グルントヘルシャフト)の所有者となった。 ウィーン会議にはザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンストの代理人として出席[3]、1816年コーブルク公国の枢密顧問官となる。1817年7月23日付でザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世より伯爵位を授与される。この伯爵位は1831年6月21日付でバイエルン王国の貴族台帳にも登録され、同国でも伯爵位を認められた。バイエルンのバイエルン王冠勲章騎士章、及びオーストリアのレオポルト皇帝勲章騎士章を拝受した[4]。 妻との間に2人の息子が生まれ、長男は夭折したが、次男エルンスト(1810年 - 1867年)はコーブルク公国宮廷に侍従として仕えた[5]。エルンストは1843年ブラジル皇帝ペドロ1世の庶出の娘ゴイアス公爵夫人を妻とした。 参考文献
外部リンク
引用・脚注
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