フランソワ・ド・カリエール(François de Callières, sieur de Rochelay et de Gigny、1645年5月14日 - 1717年3月4日)は、 フランスの外交官兼作家であり、ルイ14世の特使で、アカデミーフランセーズのメンバーであった。 1697年にレイスウェイク条約に署名した3人のフランスの全権大使の1人であった。
彼の『外交談判法』1716年(原題「主権者との交渉の仕方について」)は、ルイ14世の命令でさまざまな外交交渉に、特にレイスウェイクでの講和条約締結の交渉に全権を与えられて携わった経験から来ているとこの著作を捧げたルイ13世の孫でオルレアン公フィリップ2世への献辞で述べている通りで、この本は18世紀の外交の教科書となった。
この本は、アングロサクソン人の世界では評価が高く、とりわけトーマス・ジェファーソンとハロルド・ニコルソンによって高く評価されている。ジョン・ケネス・ガルブレイスは、交渉について言わなければならないことはすべてこの本で述べられていると言った。"[1]
生涯
カリエール家はビスケー湾に望むサントーンジュからノルマンディーに移ってきた小貴族で、彼は、シェルブールの知事であり、"'La Fortune des gens de qualité et des gentilshommes particuliers, enseignant l'art de vivre à la cour suivant les maximes de la politique et de la morale"(「政治と道徳の格言に従って法廷で生きていく術を教えている高貴な人々と人目に触れたがらない紳士の幸運」)の著者であるジャック・ド・カリエールの息子である。父親は、ノルマンディーの詩人や文芸愛好家と交流し、何冊かの文芸作品と歴史書を書いた。子どもは、フランソワとその弟ルイ・エクトルという二人の息子があった。ルイ・エクトル・カリエールは、軍人となり、カナダでイギリス人やイロコイ族と戦いカナダ総督になった。フランソワもルイ・エクトルも生涯独身だった。[2]
フランソワの初めての外交任務は1670年彼が22歳の時で、出入りしていたノルマンディー州総督ロングヴィル公に派遣され、ポーランドに赴いた。これはロングヴィル公の息子シャルル・パリをポーランド国王に選ばせるための工作をするためであった。不運なシャルル・パリは、1672年オランダ戦争に従軍し、同年6月ライン川の渡河作戦で溺死したので、カリエールの工作は徒労に終わった。カリエールは、その後の数年間にヨーロッパでのいくつかの交渉に控えめながら係わっている。サヴォイ公爵のカルロ・エマヌエーレ2世は、1675年の公爵の死によって短縮されたフランスとの同盟を試みる際に彼を雇て、サヴォイ公の使節としてバイエルンに派遣されたが、1675年に公爵が死去したためこの交渉は打ち切られた。
バイエルン王女マリア・アン(マリー・アンヌ・ド・バヴィエールが、大王太子ルイの花嫁となるべくルイ14世の宮廷に連れて行かれた時もカリエールはその交渉の初期の段階で係わっていた。パリでは、1688年の古代近代論争への賢明で公平な貢献である、Histoire poetique de la guerre nouvellement declarée entre les anciens et les modernes (古代近代論争の文学的歴史)を含め何冊かの著作を刊行しており、シャルル・ペローの主題による詩もその中にある。1689年12月23日、彼はアカデミーフランセーズのメンバーに選出された。彼の選出の決め手になったのはルイ14世への讃辞で、これをメンバーの前で披露したのはダランベールであった。
その後、3つの"優美な"作品が続く。つまり、最新の宮廷での表現と正しい所作の本[3]、うまい表現と機知に富んだ鉄道の逸話を紹介するもの[4]、そして最後に、立派な人たちが避けるべき中産階級の人たちの表現との対比で、宮廷て話されるフランス人の「優美な表現」についてのもの[5]である。
彼は10年近くパリの社交界に身を置く文人として過ごしていたが、再び外交官としての任に就く。1693年は、フランスとサヴォアの交渉に関係したが、翌年1695年10月には秘密交渉のためオランダに派遣された。
フランスは1688年以来、イギリス、オランダ、ドイツ、スペインなど周辺諸国とヨーロッパ、地中海、北米、カリブ海、インドで陸海を股にかけて戦争を繰り返してきたが、そのうちイギリスでは九年戦争、フランスではアウクスブルク同盟戦争と呼ばれる大同盟戦争の終結の可能性が見えてきたということで、カリエールがその任に当たったのである。きっかけは、サン・シモンが、『回想録』(ガリマール、プレイアード叢書版、第一巻、p.353)によると、カリエールがパリの街角でたまたま旧知のオランダ商人と出会ったのがそれだったという。2人で時局について話をしていたところ、オランダに和平の意図があると確信、カリエールがシェヴルーズに報告し、彼がカリエールを顧問会議の一員、ボーヴィリエのところに連れていき、更に外務大臣シャルル・コルベール・ド・クロワシー、前外務大臣シモン・アルノー・ド・ポンポンヌも話に加わり、カリエールがオランダに派遣されたという次第である。交渉は一度では済まず、1695年6月、1696年5月にもオランダに趣き、ようやくオランダ、イギリス、スペインの3カ国との講和の大綱がまとまった。交渉の終わりに、彼は1697年フランスの3人の全権代表の一人としてレイスウエイク条約に署名することになる。
帰国後、彼は国王官房書記官に任命され、1701年には国王の筆跡と署名を真似て手紙を代筆する任務も引き継いだ。この仕事で彼は、年俸1万ループルと宮殿内の居室を与えられた。
サン・シモンは国王に直言する勇気を持った紳士カリエールの格言を紹介している。
^Des mots à la mode et des nouvelles façons de parler, avec des observations sur diverses manières d'agir et de s'exprimer, et un discours en vers sur les mêmes matières (1692) Republished by Slatkine, Geneva, 1972.
^Des bons mots, des bons contes de leur usage, de la raillerie des anciens, de la raillerie et des railleurs de notre temps (1692) Republished by Slatkine, Geneva, 1971.
^Du bon et du mauvais usage dans les manières de s'exprimer, des façons de parler bourgeoises, et en quoy elles sont différentes de celle de la Cour (1693).
^"Tout Prince Chrétien doit avoir pour maxime principale de n'employer les armes pour soutenir et faire valoir ses droits, qu'après avoir tenté et épuisé celle de la raison et de la persuasion, et il est de son intérêt d'y joindre encore celle des biens-faits qui est le plus sûr de tous les moyens pour affermir et pour augmenter sa puissance ; mais il faut qu'il se serve de bons ouvriers qui sachent les mettre en œuvre pour lui gagner les cœurs et les volontez des hommes, et c'est en cela principalemant que consiste la science de la négociation." De la manière de négocier avec les souverains, Chapter 1, pp. 2-3
^"Il faut considerer que tous les Etats dont l'Europe est composée, ont entr'eux des liaisons et des commerces necessaires qui font qu'on peut les regarder comme des membres d'un même Republique, et qu'il ne peut presque point arriver de changement considerable en quelques-uns de ses membres qui ne soit capable de troubler le repos de tous les autres".