フランシス・ラッセル (第9代ベッドフォード公爵)第9代ベッドフォード公爵フランシス・チャールズ・ヘースティングズ・ラッセル(英語: Francis Charles Hastings Russell, 9th Duke of Bedford KG、1819年10月16日 – 1891年1月14日)は、イギリスの貴族、政治家。自由党に所属し、1847年から1872年まで庶民院議員を務めた[1]。1886年、アイルランド自治をめぐり自由党の首相ウィリアム・グラッドストンと決裂、自由統一党に転じた[1]。 生涯ジョージ・ウィリアム・ラッセル卿(第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルの息子)と妻エリザベス・アン(Elizabeth Anne、旧姓ロードン(Rawdon)、ジョン・セオフィラス・ロードン閣下の娘)の息子として、1819年10月16日に生まれ、1820年7月20日にメイフェアのカーゾン・ストリートで洗礼を受けた[1]。 1838年8月28日、エンサイン(騎兵少尉)および中尉としての辞令を購入し、スコッツガーズに配属された[2]。結婚を受けて[3]、1844年7月ごろに陸軍から引退した[4]。 1847年イギリス総選挙でホイッグ党(のち自由党)候補としてベッドフォードシャー選挙区から出馬、無投票で当選した[5]。1852年イギリス総選挙でも無投票で再選、1857年イギリス総選挙では1,564票(得票数1位)、1859年イギリス総選挙では1,837票(得票数2位)で再選、1865年と1868年の総選挙では無投票で再選した[5]。1872年5月27日に伯父の息子ウィリアムが死去すると、ベッドフォード公爵位を継承した[1]。 1880年に王立農業協会会長に就任した[1]。ウォバーンの領地で天然肥料の効用に関する実験を行い、面積90エーカーの農地を実験に使用した[6]。また、サイレージや畜産に関する知識が豊富だった[6]。 1883年時点でベッドフォードシャーに約32,300エーカーの、デヴォン州に22,600エーカーの、ケンブリッジシャーに18,800エーカーの、ノーサンプトンシャーに3,400エーカーの、ドーセット州に3,400エーカーの、バッキンガムシャーに3,000エーカーの、ハンティンドンシャーに1,300エーカーの、コーンウォールに1,200エーカーの、ハンプシャーに150エーカーの、ハートフォードシャーに100エーカーの領地を所有し、合計で年収約142,000ポンド(2019年時点の$14,407,367と同等)相当だった[1]。ほかにもロンドン周辺に多くの不動産を所有した[1]。ベッドフォードの町にジョン・バニヤンの像と公会堂を建て、デヴォン州のタヴィストックでの領地改良も進めたが、同時代の『パンチ』誌などはベッドフォード公爵がコヴェント・ガーデン周辺の領地をろくに管理していないとして批判した[3]。 1880年12月1日、ガーター勲章を授与された[1][7]。1884年4月16日から1891年に死去するまでハンティンドンシャー統監を務めた[8]。1886年、アイルランド自治をめぐり自由党の首相ウィリアム・グラッドストンと決裂、自由統一党に転じた[1]。 晩年に病気不安症を患い、さらに肺炎にかかっている最中に精神錯乱を起こし、1891年1月14日にイートン・スクエア81号で挙銃自殺した[1]。息子ジョージ・ウィリアム・フランシス・サックヴィルが爵位を継承した[1]。 家族1844年1月18日、エリザベス・サックヴィル=ウェスト(1818年9月23日 – 1897年4月22日、第5代デ・ラ・ウォー伯爵ジョージ・ジョン・サックヴィル=ウェストの娘)と結婚[1]、2男2女をもうけた[9]。
出典
外部リンク
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