フランク・タシュリン

Frank Tashlin
フランク・タシュリン
本名 フランシス・フレデリック・ヴォン・タシュライン
Francis Fredrick von Taschlein
別名義 ティッシュ・タッシュ
Tish Tash
フランク・タシュ
Frank Tash
生年月日 (1913-02-19) 1913年2月19日
没年月日 (1972-05-05) 1972年5月5日(59歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニュージャージー州ウィーホーケン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
民族 ドイツ人
職業 映画監督脚本家アニメーター映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1930年 - 1968年
活動内容 1930年 アニメーター
1936年 アニメ監督として本格デビュー
1946年 アニメを廃業、脚本家に転向
1951年 実写の映画監督デビュー
配偶者 ドロシー・マーグリット・ヒル 1936年 - 1952年
メアリー・コスタ 1953年 - 1966年
ジーン・デーンズ 1967年 - 1969年
著名な家族 2児
受賞
1949年 全米脚本家組合賞
最優秀喜劇脚本賞
最優秀西部劇脚本賞
腰抜け二挺拳銃
1958年 全米脚本家組合賞
最優秀喜劇脚本賞
ロック・ハンターはそれを我慢できるか?
テンプレートを表示

フランク・タシュリンFrank Tashlin, 1913年2月19日 - 1972年5月5日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家アニメーター映画プロデューサーである。

人物・来歴

1913年(大正2年)2月19日ニュージャージー州ウィーホーケンに生まれる。

イソップス・フェーブル』のエンドタイトル。

1926年(大正15年)、13歳で高校をドロップアウトしてから職を転々としていたが、17歳となる1930年(昭和5年)、ヴァン・ビューレンポール・テリー率いるヴァン・ビューレン・スタジオに入社。『イソップス・フェーブル』シリーズでアニメーターとしてデビュー。同社では長くは勤まらず、1933年(昭和8年)ワーナー・ブラザース内にあるレオン・シュレジンジャー・スタジオに移籍。翌年には元上司のヴァン・ビューレンに触発されて『ヴァン・ボーリング』というコミック・ストリップを仕事の休憩時間中に執筆し、ティッシュ・タッシュ名義で発表した[1][2]。しかし、同作で得た収入の取り分をめぐってシュレジンジャーと揉めたことで解雇され、アブ・アイワークス・スタジオに移籍[3]。1935年(昭和10年)にはハル・ローチの撮影所に脚本家として移籍したが、さらに翌1936年(昭和11年)には、シュレジンジャーのもとに舞い戻り、アニメーションの監督となった。

シュレジンジャー時代では様々なカメラアングルやパンショット、モンタージュ手法といった様々な実験的な演出を次々と試みた[4]。しかし、1938年(昭和13年)にスタジオマネージャーのヘンリー・バインダーと口論になり、再び退社。ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ)に脚本家として移籍した[4][5]

1941年(昭和16年)、コロンビア ピクチャーズ傘下のスクリーン ジェムズに移籍し、同社の制作部長に任命され、プロデューサー兼監督として携わった。同年にはディズニーでストライキが起きたことをきっかけに、同社から多くのアニメーターを引き抜くことに成功。イソップ寓話の『すっぱい葡萄』を基に『キツネとブドウ』(The Fox and the Grapes)という短編を監督。ブラックアウト・ギャグを取り入れ、キツネがブドウを手に入れようとしては失敗する様を繰り返す内容は、ワーナー時代の同僚であるチャック・ジョーンズが後に監督を務めた『ロードランナー&ワイリー・コヨーテシリーズ』に影響を与えた[6]。同作は後に『フォックス&クロウ』としてシリーズ化するも、同年にコロンビアの幹部と揉めて解雇され、タシュリンが監督を務めたのはこの1作のみとなった[7]

1942年(昭和17年)、レオン・シュレジンジャー・プロダクションのノーマン・マッケイブが徴兵されると[8]、彼の後任として再び同社に復帰。翌1943年(昭和18年)に公開された復帰後の第1作『ポーキー・ピッグの偉業』(Porky Pig's Feat)はポーキー・ピッグシリーズ最後のモノクロ作品となり[7]、同年に公開された『Puss n' Booty』は同社最後のモノクロ作品となった。

1944年(昭和19年)、仕事をロバート・マッキンソンに引き継ぎ、レオン・シュレジンジャー・プロダクションを退社し、セルアニメの制作から引退。同社で彩色を担当していたマーサ・シガールは、著書で何度も同社に入っては退社するタシュリンについてこう語った。「今日ここにいて、明日はいなくなる。今見えたかと思えば、見えなくなる。それがフランク・タシュリンだった。ある日はレオン・シュレシンジャーのところで働いていたのに、次の日には突然いなくなるのだ」[8]

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、ジョン・サザーランドの元でストップモーション・アニメーション作品を数本監督した後、完全にアニメーション業界を引退[9]。同年にパラマウント・ピクチャーズに移籍し、マルクス兄弟ルシル・ボール出演作品のギャグライターに転向、ボブ・ホープレッド・スケルトン出演作品の脚本家となった。1948年(昭和22年)に執筆したノーマン・Z・マクロード監督の『腰抜け二挺拳銃』が、全米脚本家組合賞の最優秀喜劇脚本賞と最優秀西部劇脚本賞のダブル受賞を果たした。

1951年(昭和26年)には、実写の映画監督としてデビューした。1958年(昭和33年)には、前年にオリジナル脚本を執筆した自らの監督作『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』が、全米脚本家組合賞の最優秀喜劇脚本賞を受賞した。同作は、フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌上に、ジャン=リュック・ゴダールが発表した「1957年のベストテン」の3位にランクインした。4位にも、タシュリンの『底抜けコンビのるかそるか』(1956年)が挙げられている。

1972年(昭和47年)5月5日、カリフォルニア州ハリウッドで死去した。満59歳没。

おもなフィルモグラフィ

en:Category:Films directed by Frank Tashlin

関連事項

  1. ^ Obscurity of the Day: Van Boring”. Stripper's Guide. 2023年3月6日閲覧。
  2. ^ Van-Boring-He-Never-Says-a-WordFacebook fan page
  3. ^ Frank Tashlin”. Lambiek Comiclopedia. 2025年5月9日閲覧。
  4. ^ a b Sigall (2005), p. 71
  5. ^ Seife, Ethan de. “Tashlin, Frank”. Senses of Cinema. https://www.sensesofcinema.com/2003/great-directors/tashlin/ 2023年3月6日閲覧。 
  6. ^ Maltin, Leonard (1980). “Columbia: Charles Mintz and Screen Gems”. Of Mice and Magic: A History of American Animated Cartoons. New American Library. p. 214. ISBN 9780452259935 
  7. ^ a b Sigall (2005), pp. 71–72
  8. ^ a b Sigall (2005), p. 70
  9. ^ Interviews: Frank Tashlin”. MichaelBarrier.com. 2022年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月6日閲覧。

外部リンク

 

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia