ピクチュア・パレス![]() ピクチュア・パレス(イギリスでの呼称)またはムービー・パレス(北米での呼称)は1910年代から1940年代に建てられた精巧な装飾を施した映画館である。1920年代後半の1925年から1930年の間には毎年数百館が開館し、ピクチュア・パレスの絶頂期であった。 ピクチュア・パレスと呼ばれる劇場には3種類の建築様式がある。1つ目は古典的様式のピクチュア・パレスであり、折衷的で豪華復古調の建築様式である。2つ目は露天のような天井が特徴的なアトモスフェリックシアターである。最後は1930年代に最も一般的になったアール・デコ調の映画館である。 通史偉大なるヴォードヴィルの劇場は20世紀初頭になると映画を上映し始めたが、長編映画が制作されるようになると映画専用劇場の建設が進んだ。1万ドルをかけてミッチェル・マークによって1913年に開館したニューヨークのマーク・ストランド・シアターは、一般的にアメリカの最初のピクチュア・パレスとされる。中上流層を映画に惹きつけることに成功し、他の人々も追随していった。 ピクチュア・パレスの建築士の多くは、アメリカ帰化第一世代であった。ルーマニア出身のジョン・エブラソンやスコットランド出身のトーマス・W・ラムなどが特筆される。他にも先駆的ものとしてラップ兄弟のシカゴ建築事務所も挙げられる。シカゴ・シアター、アップタウン・シアター、オリエンタル・シアターを設計した。また、興行主のサミュエル・ロキシー・ロサフェルはテーマをもった舞台上演と映画の豪華な上映の創始者である。シドニー・グローマンは西海岸初のピクチュア・パレスであるロサンゼルスのミリオンダラー・シアターを1918年に建設した者として知られる。 その名前が示す通り、ピクチュア・パレスはその時代の他の製品と同様に『平均的な市民を貴族のような気分にさせる』ことを謳い文句としていた。民主的な格言や愛国的な彫像が刻まれた一方、意図して貴族時代のヨーロッパの偉観を参考としており、しばしばヨーロッパの流行で彩られていた[1] 。 ジョン・エブラソンはピクチュア・パレスの一種であるアトモスフェリックシアターに特化していた。同氏は500館ほど建築を手がけたが、テキサス州ヒューストンに1923年に建築したマジェスティック・シアターがその最初である。アトモスフェリックシアターは深青色の天井の下に、高度に装飾された非対称の外壁と異国情緒のある動植物が周囲を囲っており、屋外の中庭に座っているような感覚を伝えるものだった。そして、照明が消されたときは、ブレノグラフと呼ばれる特殊な映写機が天井に雲や天体の特殊効果を投影した。 トーマス・W・ラムはオペラハウスに倣って作られた『ハードトップ』と呼ばれる形式など、当初は非常に伝統的な様式であったが、きらびやかなものを設計した。同氏の手がけた劇場は1910年代の比較的穏当な新古典主義的な設計から1920年代には精巧なバロック調や東洋的な意匠を施したものまで進化した。 装飾ピクチュア・パレスの特徴的な外観は特に意匠を凝らした装飾の1つである。劇場はしばし様々な視覚要素が互いに衝突し合い折衷的な異国情緒を漂わせる設計となっていた。フランス風バロック様式、盛期ゴシック様式、モロッコ風様式、地中海風、スペイン風ゴシック様式、ヒンズー風、バビロニア様式、アステカ風、マヤ風、東洋風、イタリアルネッサンス様式、(1922年のツタンカーメンの墓の発見の後)エジプトリヴァイヴァル様式などが全て混合し調和していた。この装飾の豪華さはただ単に美的な効果を得るだけではなかった。映画ファンを惹きつけるような幻想的な環境を築き、魅了させることが目的だった。今日まで残ったピクチュア・パレスの多くは通常の劇場、展示場、もしくはコンサート、演劇、オペラの上演等で使用されている。 写真
劇場開館年と所在地を付記したピクチュア・パレスの一覧を以下に示す。
脚注外部リンク |
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