ピエール・コシュロー
経歴パリ近郊サン=マンデに生まれる。数か月間ヴァイオリンの訓練を受けた後、1929年にマリユス=フランソワ・ガイヤールにピアノを師事。1933年にはマルグリット・ロンに入門し、3年後にはさらにポール・パヌセに入門。1938年、マルセル・デュプレの弟子であるマリ=ルイーズ・ジローからオルガンの手ほどきを受ける。アンドレ・フルーリとポール・ドラフォスのもとでオルガン演奏の研鑽を積み、1942年にはドラフォスの後任としてパリのサン=ロック教会のオルガニストに就任した。 一度は法学部に入ったものの、1年後には法律学を捨て音楽家として立つことを決意し、1943年にパリ国立高等音楽院へ入学。1949年には、和声(モーリス・デュリュフレのクラス)、音楽史、フーガと対位法(ノエル・ガロンのクラス)、作曲(トニー・オーバンのクラス)、オルガン(デュプレのクラス)において一等賞を獲得して卒業。 1948年9月、最初の演奏旅行をハンガリーでおこなう。1年後にピアニストで作曲家のニコール・ラクロワと結婚し、のち2児を儲ける。長男のジャン=マルクは指揮者で現在はオルレアン音楽院の院長を務め、次男のマリ=ピエールはハープ奏者となった。 1949年、26歳にしてル・マン音楽院の院長に任命され、1956年までこの地位にとどまる。1955年、レオンス・ド・サン=マルタン(1886年 – 1954年)の後任としてパリのノートルダム聖堂のオルガニストに就任。 1956年、デュプレの『受難の交響曲』(作品番号23)の録音でフランス・ディスク大賞を受ける。同年、初めての米国ツアーをおこなう。以後25回にわたるアメリカ演奏旅行の始まりだった。 1961年、ニース音楽院の院長に就任。1980年にリヨン国立高等音楽院の院長となるまでこの地位にとどまる。晩年には、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演でサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』の録音を残した。 1984年3月5日夜、リヨンにて心臓発作のため死去。享年59。なきがらはパリのベルヴィル墓地に葬られた。 脚注
外部リンク
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