ピアノ協奏曲第1番 (ショパン)
フレデリック・ショパン作曲のピアノ協奏曲第1番(ピアノきょうそうきょくだいいちばん) ホ短調 作品11は、1830年に完成された。ドイツ出身のピアニスト・作曲家で、ショパンが一時弟子入りを考えていたフリードリヒ・カルクブレンナーに献呈された。 概要![]() 第1番とあるが、実際は2番目に作られている(現在、下記のナショナル・エディションでは単に『協奏曲ホ短調』となっており、番号付けが廃されている)。最初に書きあげたヘ短調協奏曲を1830年3月17日にワルシャワでのプロデビュー演奏会で初演したのちに作曲に取りかかった。 そして同年の10月11日、ウィーンへ出発する直前に行われたワルシャワでの告別演奏会においてショパン自身のピアノ独奏により初演された。その後、1832年2月26日のパリデビューでの演奏会でも演奏されて好評を博したために出版の運びとなったことが翌1833年の初版に記されている。カルクブレンナーにこの曲を献呈したのも、パリデビューに尽力してくれたことへの感謝のためであった。その後もショパンは演奏会でもっぱらこの曲を演奏し、弟子たちにも練習させた。このことから、この曲を第1番として最初に出版したのはショパンがこの曲を自信作だとみなしていたからだと考えられる。 この作品は彼の故郷ワルシャワへの告別と、飛翔の意味が込められているといわれる。協奏曲としては処女作で、ロマンティックな情念と創意にあふれる第2番と比較して、前作の経験を基に書かれたこの第1番は構成を重視した作りで規模も大きい。 ピアノ独奏部に対してオーケストラの部分が貧弱である[2]と批判されることがあり、カール・タウジヒ(曲の構成及びピアノパートにまで改変を加えている)、ミリイ・バラキレフなどが自作の管弦楽編曲を残している。 この曲の自筆譜はほとんど現存しておらず、ヤン・エキエルによるナショナル・エディションによれば、第2番同様に現在の楽譜は他人によりオーケストレーションされた可能性が高い(出版社が複数のオーケストレーターに書かせたという[3])とされている。しかし、第2楽章で弦楽器に弱音器を付けるなど、第2番と共にショパンが苦労しながらも独自のオーケストレーションを試みていたことは間違いない。 ナショナル・エディションでは、作曲者が楽器の指定を書き込んだ一部現存するピアノスコア、オーギュスト・フランショームがパート譜を元に作成したピアノ編曲譜などを元にしてショパンが本来意図したであろうオーケストレーションを復元した「コンサート・バージョン」と、従来の楽譜を校訂した「ヒストリカル・バージョン」を刊行している。 「1台ピアノ・バージョン」と「ピアノ6重奏版・バージョン」もPWMは刊行しているが、これは後世の検証に基づくものである。 ショパンの書簡に基づいた「ピアノ5重奏版・バージョン(6重奏からコントラバスを抜いたもの)」も最近はよく演奏され、CDにも収録されるようになっている。 編成第2番より管楽器が拡張されている。 従来の楽譜の編成は エキエルによる「コンサート・バージョン」では、現代的な楽器変更がなされている。変更点は
これらの楽器変更についてエキエルとシコルスキ両名による改変主張は、全く確認されていない。しかも、管楽器が削られて音もなくなってしまっているため、余計に貧弱なオーケストレーションにさせられてしまっている[要出典]。 現在この作品が演奏される場合はエキエルとシコルスキによる編集版がほとんどだが、かつての指揮者はホルン4をそのままフルダブルホルンで対応させて弦も14型以上で演奏するのが慣例であった。古いLPの演奏のオーケストラの音が大きく聞こえるのは、これが原因である[要出典]。 第18回(2021年)ショパン国際ピアノコンクールの本選のオーケストラの弦は12型(12.10.8.6.4)、ホルンは初版通り4本であった[4]。 曲の構成
普通にライブで接するとテンポのめまぐるしく変わる作品であるかのような印象を受けるが、自筆譜にそのような指定は全くない。かつては第1楽章が長すぎるとして、カットをするのが慣例であった時期があった。 備考
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |
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