パレロンのデメトリオス![]() ![]() パレロンのデメトリオス[1][2](ファレロンのデメトリオス[3][4][5]、パレーロンのデーメートリオス[6]、古希: Δημήτριος ὁ Φαληρεύς、英: Demetrius of Phaleron, Demetrius of Phalerum, Demetrius Phalereus、前350年ごろ[1] - 前280年ごろ[1])は、古代ギリシア・ディアドコイ戦争期の政治家、著述家、弁論家、ペリパトス派の哲学者[6]。 アリストテレスの孫弟子[1]。カッサンドロスに仕えアテナイに善政を敷いた。のちエジプトでプトレマイオス1世に仕え、アレクサンドリア図書館の創設を進言した[4]。 様々な著作があったが佚書となっている[1]。現存する著作に『文体論』があるが、実際は別人の著作とされる[7]。 生涯アテナイ時代前350年ごろ[1]、アテナイの外港パレロンに生まれる[6]。父はコノン将軍家に仕える奴隷[6][3](または中産階級[8])だった。リュケイオンに入学し[3]、二代学頭テオプラストスの弟子となり[1][6][9]、おそらくアリストテレス(前323年にアテナイを去る)にも学んだ[8][3]。学友に喜劇作家メナンドロスがいた[8]。 前324年(ハルパロス事件のころ)[8][9]、若くして政界入りし[6]、反マケドニア派だった兄ヒメライオスと対照的に、親マケドニア派に属する[5]。前322年、ラミア戦争でアテナイが敗れると、ポキオン・デマデス・クセノクラテスと、アンティパトロスのもとに和平交渉に赴く[10]。 前317年、アンティパトロス朝のカッサンドロス(前年にアテナイの支配権を得た)からアテナイの統治者に任命される[6]。背景として、カッサンドロスとデメトリオスは、ニカノル(カッサンドロスの部下でアリストテレスの娘婿)を介して親交があった[8]。以降10年間、寡頭政[11][10](哲人統治的な混合政体[12])のもと、人口調査や財政政策などで善政を敷き、リュケイオンへの支援もした[11]。 前307年、アンティゴノス朝のデメトリオス1世(攻城者デメトリオス)がアテナイを征服し民主政を復活させると、失脚してテーバイに亡命、のちエジプトに渡る[6][13]。 エジプト時代前297年から、プトレマイオス朝のプトレマイオス1世に仕え[6]、政治書を読むよう奨励したり、自著『プトレマイオス』を献呈したり、法制を考案したりした[3]。 特に、新興都市アレクサンドリアに図書館(アレクサンドリア図書館)と学堂(ムセイオン)を設立するよう進言した[6][3]。デメトリオスは、蔵書集めに貢献するとともに、リュケイオンの姉妹機関となることを構想し、のちの三代学頭ストラトンを招聘した[3]。ただし、初代館長となったのは文法学者ゼノドトスだった[14]。(設立経緯の詳細については諸説ある。) プトレマイオス1世の後継者選びに際し、王妃エウリュディケの子であるプトレマイオス・ケラウノスを推挙した[15]。エウリュディケはカッサンドロスの妹であり、デメトリオスのエジプト入りを助けた恩があった、とも考えられる[15]。しかし最終的に、王妃ベレニケの子であるプトレマイオス2世が即位すると、デメトリオスは上エジプトに放逐された[15][6]。 前280年ごろ[1]、居眠り中に毒蛇に腕を噛まれて死亡した[3][6][16]。暗殺・自殺・事故死のいずれか定かでない[3]。遺体は敬意を払われず上エジプトに埋葬された[3]。 逸話ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第5巻のデメトリオス伝などに、様々な逸話が伝わる。 アテナイ統治中に360の彫像が立てられたが、失脚すると海に捨てられたり尿瓶として使われたりした[6]。それを聞いたデメトリオスは「彼らは像は倒せても、私の徳は倒せない」と言った[17]。 アテナイ統治中、財政政策として奢侈禁止令を敷いた一方で[12]、自身は奢侈を尽くし、化粧や金色の染髪をして情交に耽っていた[6][18]。 美しい眼の持ち主として知られた[6]。アレクサンドリアで一時失明したが、セラピス神の霊験で視力を回復した[6]。これを受けて奉献した『セラピス讃歌』が後世まで歌り継がれた[15]。 評価デメトリオスのアテナイ統治は善政とされる[8]。デメトリオスを敵視したデモカレス(デモステネスの甥)でさえも、その財政的繁栄を認めている[8][19]。 キケロからは「政治と学問の両方に優れた希少な人物」[1][20]、「哲学に優れ、驚嘆すべき著作を多く残した」[21][22]、「最も学識ある弁論家」[8][23]、クインティリアヌスからは「アテナイ最後の偉大な弁論家」[8][24]と評されている。 著作佚書『ギリシア哲学者列伝』第5巻のデメトリオス伝には、哲学から政治学・倫理学・歴史学・詩学・弁論術などに及ぶ45点の著作の題名が載っている[25][26]。そこに載っていない著作や[27][28]、考古資料に載っている著作もある[29]。師テオプラストスと対照的に動物学・植物学の著作はない[11]。 主な佚書に以下がある。
『文体論』『文体論[34]』(『文体について[6]』とも、古希: Περὶ ἑρμηνείας, 英: On Style)が現存する。 ギリシア文学の文芸理論を論じた教科書的書物であり、アリストテレス『詩学』、伝ロンギノス『崇高について』と並ぶ、同分野の貴重資料となっている[35]。 ただし、帰属の根拠は後世の写本に挿入された「デメトリオスの文体論」という標記のみである[7]。したがって、実際の著者は別の「デメトリオス」、もしくは「デメトリオス」ですらないと考えられる[7]。内容はペリパトス派の影響を多く受けているが、著者がペリパトス派に属するかは定かでない[36]。成立年代は前3世紀から後1世紀の間で諸説ある[7]。 日本語訳
関連項目脚注
参考文献
外部リンク
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