パブロ・オズーナ
パブロ・ホセ・オズーナ(Pablo Jose Ozuna、1974年8月25日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(ユーティリティプレーヤー)。右投右打。 ポジションは主に外野手で、他に二塁手・遊撃手・三塁手・一塁手でのプレー経験がある。 経歴プロ入りとカージナルス傘下時代1996年4月にセントルイス・カージナルスと契約[2]。 1998年、傘下A級ピオリア・チーフスで133試合に出場して、打率.357、出塁率.400、OPS.894、62盗塁の好成績を収め、ベースボール・アメリカ誌のマイナー代表チームとミッドウェストリーグのトップ・プロスペクトに選出され、リーグMVPにも輝くなど、メジャー昇格への足がかりを掴む。 マーリンズ時代1998年12月14日にエドガー・レンテリアとのトレードで、アーマンド・アルマンザ、ブレイデン・ルーパーの両投手と共にフロリダ・マーリンズへ移籍。 1999年は傘下AA級ポートランド・シードッグスで117試合に出場し、打率.281、7本塁打、46打点、31盗塁を記録[2]。 2000年4月23日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャーデビュー。この年はわずか14試合の出場ながら打率.333をマーク。またAA級ポートランドでは打率.308、35盗塁を記録した[2]。 2002年は34試合に出場し、打率.277、0本塁打、3打点、1盗塁を記録した。 ロッキーズ時代2002年11月16日にマイク・ハンプトン、フアン・ピエールとのトレードで、プレストン・ウィルソン、チャールズ・ジョンソン、ヴィック・ダレンスバーグと共にフロリダ・マーリンズへ移籍[3]。 2003年は膝の怪我のためわずか17試合の出場、打率.200に終わった。12月14日に自由契約となった[2]。 フィリーズ傘下時代2004年1月9日にデトロイト・タイガースと契約したが、3月27日に金銭トレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍。この年は傘下AAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レッドバロンズで126試合に出場し、打率.307、6本塁打、76打点、31盗塁を記録したが、メジャーへの昇格機会は無かった[2]。オフの10月15日にFAとなった[2]。 ホワイトソックス時代2005年1月19日にシカゴ・ホワイトソックスと契約。移籍後は複数のポジションをこなすユーティリティープレーヤーや代走・右の代打として、チームの世界一に貢献。当時、腰に故障を抱えていたジョー・クリーディやメジャー1年目だった井口資仁らの休養日の代役として、ウィリー・ハリスやティモ・ペレスらと共に大きな役目を担った。この年は主に控えとして70試合に出場し、打率.276、0本塁打、11打点、自己最多の14盗塁をマーク。 2006年もアレックス・シントロンやロブ・マコーヴィアクらと共にユーティリティーとしてプレーし、自己最多の79試合に出場し、打率.328・メジャー初本塁打を含む2本塁打をマークした。また、8月24日のデトロイト・タイガース戦では左翼の守備で、ショーン・ケーシーを一塁でアウトにしてレフトゴロを記録した。 2008年は32試合に出場していたが、7月8日にDFAとなり、7月16日に自由契約となった[2]。 ドジャース時代2008年7月20日にロサンゼルス・ドジャースと契約した。移籍後は32試合に出場。オフの11月12日にFAとなった。 フィリーズ傘下時代2009年1月15日にフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。開幕後は傘下AAA級リーハイバレー・アイアンピッグスに配属された。6月11日、禁止薬物に陽性反応を示したため、50試合の出場停止処分が下った。8月20日に自由契約となった[4]。 独立リーグ時代2010年は独立リーグ・アトランティックリーグのニューアーク・ベアーズと契約。28試合に出場して打率.294、1本塁打、13打点、3盗塁という成績だった。この年限りで退団した[2]。 その後は、2012年-2013年シーズンまで母国ドミニカのウィンターリーグでプレーして現役を引退した。 プレースタイル1999年当時は、「選球眼が甘く四球を選べないものの、コンタクトに優れ、スピードとクイックネス(初動の速さ)を兼ね備えた優れた走者で遊撃守備も上手い」と評され、「(前年オフに)マーリンズがレンテリアを放出してまでトレードに応じたのは、オズーナを欲したからだ」と言われたほど将来を嘱望されていた[5]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク |
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