バディ・カーライル
アール・レスター・カーライル(Earl Lester "Buddy" Carlyle , 1977年12月21日 - )は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 経歴プロ入りとパドレス時代1996年のMLBドラフト2巡目(全体38位)でシンシナティ・レッズに指名され、7月21日に契約。 1998年4月8日にトレードでサンディエゴ・パドレスに移籍し、翌1999年8月29日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。シーズン終盤にメジャー初白星を挙げる。 阪神時代2000年11月3日に阪神タイガースに入団。1年目の2001年は7勝10敗と負け越し、防御率3.87はリーグ14位だった。2年目の2002年は調子を落とし更にマーク・バルデスやトレイ・ムーアが活躍しシーズンの大半を二軍暮らしになってしまった。結局、シーズン未勝利に終わり(2敗)、防御率も7.53と大きく悪化し、同年オフに解雇。 LG時代まで2002年12月18日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだが、メジャーでの出場はなく、2003年10月15日にFAとなった。同年12月23日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。2004年はマイナーリーグで12勝5敗・防御率3.19と好投したが、メジャー昇格はならず、FAとなった。11月18日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。2005年に中継ぎとしてメジャー昇格も果たすが結果が出ず、すぐにマイナー降格。5月4日に放出された。12月15日にフロリダ・マーリンズと契約した。 2006年5月18日に放出され、翌日19日に、故障により退団したマニー・アイバーの代役として韓国プロ野球(KBO)のLGツインズと契約。 ブレーブス時代2006年12月4日にアトランタ・ブレーブスと契約。2007年6月7日に先発として登板し、7年269日ぶりのメジャーでの勝ち星を挙げる。しかしチームの中継ぎの事情により、その日のうちにマイナー降格という憂き目に遭った。また、7月6日のパドレス戦の4回、メジャー史上39回目の「1イニング三者3球三振」を記録。 2008年は45試合に登板してまずまずの成績を残すも、2009年は打ち込まれることが多く不本意な成績に終わる。10月9日にFAとなった。 日本ハム時代2009年11月17日に北海道日本ハムファイターズとの契約に合意した旨が日本ハム球団から発表された。 2010年は、開幕一軍、先発ローテーションを任されたが、間もなく二軍落ち。監督、コーチからも捕手のサインに首を横に振ることが多かったことから「ストレート、速球に頼りすぎ」の評価を受けた。結局、7試合に登板(そのうち4試合は先発)し、開幕ローテーション入りも果たしたが1勝も挙げられずに9月30日に退団が決まった[1]。 ヤンキース復帰2010年12月2日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ[2]。 2011年4月23日にメジャー昇格。7月5日に傘下のAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースに降格し、8月20日に自由契約になった。 ブレーブス復帰2012年1月30日にブレーブスとマイナー契約を結んだ。11月3日にFAとなった。 ブルージェイズ傘下時代2012年12月11日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだ。 2013年は、傘下のAAA級バッファロー・バイソンズで開幕を迎えた。11月5日にFAとなった。 メッツ時代2014年2月18日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ[3]。開幕後は傘下のAAA級ラスベガス・フィフティワンズで18試合に登板。1勝1敗1セーブ・防御率1.27と好投し、5月31日にメッツとメジャー契約を結んだ[4]。同日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では同点の延長11回裏から3年ぶりのメジャー登板。3回を2安打無失点に抑え、直後の14回表にメッツが勝ち越したため、勝利投手となった[5]。2度目の登板となった6月4日のシカゴ・カブス戦では、1.1回を無失点に抑えたが、6月5日にDFAとなり、6月7日にAAA級ラスベガスへ降格した。7月6日にジョン・ニースが故障で離脱したため、再びメッツとメジャー契約を結んだ[6]。昇格後は3試合に登板したが、7月20日にDFAとなり[7]、7月23日にAAA級ラスベガスへ降格した。7月26日に松坂大輔が故障者リスト入りしたため、メッツと再びメジャー契約を結んだ[8]。この年は27試合に登板し、1勝1敗、防御率1.45だった。オフの10月31日に40人枠を外れ、AAA級ラスベガスへ降格し、11月4日にFAとなった。 2015年1月5日にメッツとマイナー契約で再契約した[9]。4月5日にメジャー契約を結び昇格したが、5月14日に背中の痙攣で15日間の故障者入りし[10]、7月7日に60日間の故障者リストに移行した[11]。同年は11試合に投げたが、防御率5.63と今一つだった。しかし1勝を挙げたほか、メジャー初セーブもマークした。11月10日にFAとなった[12]。 2016年はメッツと再びマイナー契約したが、スプリングトレーニング終盤に解雇された。 現役引退後2016年5月10日に古巣アトランタ・ブレーブスのコーチ補佐に就任したことが発表され、同時に現役引退を表明した[13]。 2017年からはロサンゼルス・エンゼルス傘下AA級モービル・ベイベアーズのコーチに就任し、翌2018年からはエンゼルス傘下マイナー巡回のピッチングコーディネーターを務めている[14]。 人物2009年5月に1型糖尿病を発症したことを明らかにしている。2010年春季キャンプ中、本人の希望で阪神のキャンプ地・宜野座を訪問し、同じく1型糖尿病を発症している岩田稔との対談を行った。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia