ハーブ・スコア
ハーバート・ジュード・スコア(Herbert Jude Score, 1933年6月7日 - 2008年11月11日)は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ローズデイル出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 経歴19歳の誕生日である1952年6月7日にクリーブランド・インディアンスと契約。1953年はA級で、98イニングで126四球を記録する[1] 荒れ球ぶり。1954年はAAA級に昇格し、22勝5敗・防御率2.62・330奪三振の好成績でスポーティング・ニューズが選出するマイナーリーグ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、「左のボブ・フェラー」の異名を取る[2]。1955年は開幕メジャー入りを果たし、4月15日のデトロイト・タイガース戦でメジャーデビュー。9四球を与えながら3失点完投勝利を挙げた[3]。5月1日のボストン・レッドソックス戦でキャリアハイの16奪三振、5月18日の同カードではメジャー初完封を記録[3]。5月30日号のスポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を飾り[2]、ルーキーながらオールスターゲームに選出される。7月30日のボルチモア・オリオールズ戦では1安打完封勝利を挙げる[3] など、リーグワースト2位の154四球ながら16勝10敗・防御率2.85、1911年のピート・アレクサンダーのルーキー記録227奪三振を更新する245奪三振を記録し、最多奪三振を獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[4]。1956年は2年連続でオールスターゲームに選出され、8月21日のニューヨーク・ヤンキース戦では7回までノーヒットに抑えて完封勝利[5] を挙げるなど20勝9敗・防御率2.53、共にリーグ最多の263奪三振・5完封で2年連続の最多奪三振を獲得した。 1957年は初の開幕投手を務め、順調な滑り出しを見せたが、5月7日のヤンキース戦で初回にギル・マクドゥガルドの打球が顔面に直撃し降板。鼻骨骨折、右頬骨と右目を損傷する重傷を負い病院に搬送された[2]。1958年の開幕戦で復帰したが、4月30日に左肘を故障。その後も故障がちで2勝に留まった[2]。1959年は前半戦で9勝5敗、2桁奪三振を3度記録するなど復活したかに思われたが、後半戦で6連敗を喫し[2] 9勝11敗・防御率4.71、リーグワーストの14暴投に終わった。1960年4月18日に1選手との交換トレードでシカゴ・ホワイトソックスに移籍。 同年は5勝10敗・防御率3.72に留まる。速球のスピードは戻らず、ボールの動きも失ってしまった[2]。1961年は6月にAAA級に降格。防御率5.10、134.0イニングで136四球に終わった[1]。1962年は4試合のリリーフ登板のみで再びマイナーに降格し、再昇格はできなかった。1963年はAAA級で0勝6敗・防御率7.66という散々な成績に終わり、同年限りで現役引退。打球直撃のアクシデント後に成績を大きく落としたが、それを言い訳にすることはなく、それよりも故障の影響の方が大きいと主張した[2]。 引退後は1964年から1997年まで30年以上に渡ってインディアンス専属のブロードキャスターとして活躍。2008年11月11日にオハイオ州ロッキーリバーで死去。75歳没[2]。 投手としての球種はカーブ、スライダー(米書 「guide to pitchers」より) 詳細情報年度別投手成績
獲得タイトル・表彰・記録
脚注
外部リンク
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