ハイウェイマン (曲)ハイウェイマン (The HighwaymanまたはHighwayman) は、アメリカ人シンガーソングライター、ジミー・ウェッブによって1977年に発表された曲。 1979年にはグレン・キャンベルが、1985年にはThe Highwaymenがそれぞれのバージョンを発売した。 曲についてこの曲は実在のハイウェイマンであるジョナサン・ワイルドに影響を受けて書かれた、4つの時空にわたる転生物語である。 3番のダム建設者のパートでは、実際にはコンクリートへの転落死はないのたが(熱射病での死亡が多数)[1]、ネバダ州のフーバーダムにおける100人以上の死をほのめかす内容となっている。 作詞作曲ウェッブによると、ロンドンで自身のアルバム「El Mirage」の仕上げ作業をしている傍らこの曲を書いたという。 友人であるハリー・ニルソンと酒を飲んだ夜、眠りについたウェッブは「信じられないくらい鮮明な」夢を見たという[2]。
ウェッブは "古風な話し方" のようなものを伝えようと一節に「Along the coach roads I did ride」という表現を取り入れた。この曲がウェッブをどんな方向へ向かわせるか定かでない中、彼は追い剥ぎは死なず、生まれ変わるのだと悟り、その考えから発展させて続く2番以降を書いた。 2番では船乗り、3番ではダム建設者に生まれ変わった。4番は未来の話に変わり、いつか 「宇宙の境目を宇宙船で渡り飛ぶ」 宇宙飛行士に転生した。 ジミー・ウェッブ・バージョン
アルバム『El Mirage』のプロデューサーはジョージ・マーティンが務めた。ウェッブのオリジナル・バージョンはand around....やand again....の部分がクリシェのようにはなっておらず、最後にはウェッブが「バッバッバッバンバ〜ン」と口ずさんでいる。 グレン・キャンベル・バージョン
ウェッブは1978年、カントリー歌手のグレン・キャンベルにこの曲を持ち込み、同年に録音された。 彼の所属レーベルであるキャピトル・レコードは、ザ・ナックのような違った方向性でこの曲を録音してほしがった[3]。 キャンベルはこの曲をシングルとして発売したかったが、レーベル側はこれを拒否[4] 。これをきっかけに、キャンベルは1962年から30枚のアルバムを出してきたキャピトルのメインスタジオを離れ、戻ることはなかった。そこからさらに3枚のアルバムを制作したものの、キャンベルとキャピトルの関係は終わりを迎えた[5]。 1979年10月、アルバム「Highwayman」においてようやくこの曲を発売した。 ザ・ハイウェイメン・バージョン
1984年、キャンベルはジョニー・キャッシュにこの曲を披露した。当時彼はウィリー・ネルソンやウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファーソンらとの合作に取り組んでいた。ウェッブはその数年前、ジェニングスにこの曲を持ち出した。彼はキャンベル・バージョンを聞いたことがあったが、「よく分からなかったよ」と述べた[6]。 テレビ特番のために4人全員がスイスに集まった際、何か共同でプロジェクトに取り組むべきだという結論になった[7]。4人がファーストアルバムの録音をしている中、マーティー・ステュアートがこの曲を再びキャッシュに披露し、4番あって、(歌詞に)4つの魂があるし、4人にピッタリだと言って勧めた[8]。 その後キャンベルは、今度は4人全員にこの曲を披露した。そうしてこの4人組は「The Highwaymen」の名を冠し、ファーストアルバムも「Highwayman」と名付け、ファーストシングルもこの曲となった。 4人は、自分たちはずっと「道」を歩み続けており、カントリー界におけるならず者であるという印象があったため、このグループ名は完璧だと考えた[7](「highwayman」という単語は「追い剥ぎ」という意味)。 このバージョンでは、4番ある曲を4人が1番ずつ歌った。追い剥ぎの魂を歌う1番をネルソンが、水夫の魂を歌う2番をクリストファーソンが、ダム建設者の魂を歌う3番をジェニングスが担当。そして最後、宇宙船の船長の魂を歌う4番はキャッシュが務めた。 作詞者であるウェッブは後に 「4人がどうやって歌うパートを決めたのかは知らないけど、最後にジョニー(キャッシュ)をもってくると、神がみんなの曲を歌っているようだよ(笑)」 と述べている[2] 。 キャッシュは、娘のロザンヌに説明されるまで、この曲が転生に関する歌だと分かっていなかった。 ミュージックビデオは白黒で、俳優が登場人物(4人中)3人の死を含めた歌詞の内容を再現している。4人それぞれが自身のパートの終盤に空に映し出されて歌っている[9]。 このカバー曲はThe Highwaymenの中で1番人気で、彼らの曲として広く知られている。このバージョンは1985年5月18日にHot Country Songs Billboard Chartにおいて1位に到達[10]し、合計20週間にわたってランクインし続けた[11]。ラジオ放送におけるカントリーソング第5位で同年を終えた[12]。 同バージョンは1986年、グラミー賞において最優秀カントリー楽曲賞を受賞した[13]。 出典
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