ノート:竹島外一島
スタイルについて「竹島外一島」は竹島問題について重要な文言なので別項目に挙げたのですが、文言そのものは「一般的に使用できる文」なので竹島問題の関連項目として解りやすくするため、あえてこのようなスタイルをとっています。もし、Wikiのスタイルにどうしても統一しなければならないのなら、統一しますが。--于山 2008年2月18日 (月) 20:18 (UTC) 「太政官指令の「竹島外一島」」の部分で論理展開に矛盾矛盾の原因は、 一、 「そのまま記載してるため、・・・意味してる事になる」 であると思う。しかし、 「そのまま記載したとするなら、、・・・意味してる事になるが、・・・」 なら、文脈として矛盾ではなくなる。 本文中の「太政官指令の「竹島外一島」」の部分で、以下、A,Bでは明らかに矛盾している文意である。 この場合は、A,「意味している」もB,「認識」も言葉は違ってるが同じことである。しかるに、記事の内容は全く異なる矛盾した論理展開である。 つまり、かの記事での主張は、明治政府という同一人が、A,では「松島=現在の竹島」とし、B,では「松島=鬱陵島」と認識した、と言ってるのである。 A,「従って、1877年(明治10年)の太政官指令の「竹島外一島」は、島根県が提出した「磯竹島略図」[1]の内容をそのまま記載しているため、鬱陵島と現在の竹島を意味している事になる」 B,「当時は鬱陵島を「松島」として認識しており」 (以下、抜粋部の全体参照) 従って、1877年(明治10年)の太政官指令の「竹島外一島」は、島根県が提出した「磯竹島略図」[1]の内容をそのまま[要出典]記載しているため、鬱陵島と現在の竹島を意味している事になるが、当時は鬱陵島を「松島」として認識しており、この指令によりすぐに当時の政府が鬱陵島と現在の竹島の領有を放棄したとは言えない。 ニ、 太政類典での記載は当時の明治政府の高官・前島密らが島根県提出の徳川元和年間の関係書類を列挙、写したものあって、元和(徳川の初代年号)という200年も前の徳川時代の初期の文の中に「次に一島あり」があるから、それを「外一島」だと結びつけた、と断定するのは無理がある、と思う。 というか、むしろ故意に「曖昧」にされた、と思う。なぜなら、 1、背景には西南戦争で、どちら側につくか(ついていたか)、という死活に直結する問題がある。(大久保利通の代理の前島密は「中立性」を保とうとした。) 2、更には海図での混乱(「海図上の竹島は架空島、松島が鬱陵島らしい。」という情報)がある中、未だ測量の手が及ばないという純粋な科学技術的問題が未解決 3、更には国民からは「明治政府は朝令暮改」と揶揄されている 時節でもあり、前島らは征韓派、修好派のどちらにも言い訳できるように、また後の水路局の測量調査ではっきりした場合にも国際問題にならないように、責任追及されないように「外一島」を明確に定義せず故意に曖昧にしたと思う。 明治維新という激動の時代、権力闘争が渦巻く中、その中で生き延びてきた(高官らの)術である。なにしろ彼らは激動の時代を生き延びた「内務官僚気質」の創始者たちなのである。 明治政府高官らは、そもそも江戸時代の「図面」を信用してなかったであろう。だから、いかに明治維新の志士らであっても、彼らは「明言するのは、政治家肌でもなく軍人肌でもなく、権力欲のない学者肌で科学者としての才能を光らせ始めていた水路局長(柳楢悦)らが確認した後でも十分に遅くない。」という「保身」も備えた道を選ぶのは、内務官僚伝統、否、「日本国東京都霞ケ関村」の文化、伝統の創始者らにとって選択枝の第一候補だったと思う。 --125.1.225.127 2008年12月6日 (土) 22:12 (UTC)
利用者:于山は荒らしだと思うが自分と違った歴史観だと削除するっていうのは荒らしだと思うが 論理的説明がなくばっさり削除って、いやはや、やはり科学部門ではノーベル賞とは縁のない御国柄なんだろうなあああ --FIGHTINGFREEDOM 2008年12月8日 (月) 18:07 (UTC)
于山氏はどこまでも言論抑圧体質、荒らしだと思う自分と違った歴史観だと削除するっていうのは荒らしだと思うが 論理的説明がなくばっさり削除って、いやはや、やはり科学部門ではノーベル賞とは縁のない御国柄なんだろうなあああ --FIGHTINGFREEDOM 2008年12月10日 (水) 02:09 (UTC)
ノートでの記載順のルールの根拠をしめしてください--210.131.1.45 2008年12月10日 (水) 03:45 (UTC) 冒頭より移設しました。Help:ノートページをご確認下さい。人に示すことを要求するまえに、ご自分で探してみてくださいね。--はるひ 2008年12月10日 (水) 03:58 (UTC) 「存在がないということ証明する」のは「悪魔の証明」といって、万能の神ならざる人間には不可能なこと。無いのは無いとしかいい様がないのである。 だからその悪魔の証明を他人に要求する姿勢、論理というのは、不誠実というか、民主主義社会での議論の基本的ルールを知らないもののすることだと思う。 --61.124.76.193 2008年12月14日 (日) 07:16 (UTC) 例えば、100年後、今の裁判記録を調べることに喩えて言えば100年後のある人が、「100年前の裁判記録見たんだけど、この100年前の裁判記録には国語辞典も六法全書も添付されてない。ということは、この裁判は判決書に書いてあることそのままにされた。だからこの裁判は裁判書に書かれてる適用法令、条項には従ったんだろうが、そのほかの国語辞典とか法令は無視された。裁判は殆どは外国語で行われ、裁判書に書いてない裁判所法なんか無視して行われた裁判だった。」って言ったら間違いだよね。 それと同じような論理が一貫してるように見受けられるんだなね、この「竹島外一島」の項目。 官公庁では、いつの時代でも、そのときの常識的な基準、標準となるものは裁可などされるにあたって、いちいち記録書類としては添付、保存はされないってこと無視した偏執した論理が主導してる感じがするんだけどね。 --61.124.76.193 2008年12月17日 (水) 21:43 (UTC) 所詮は曖昧な用語「外一島」なのですそれに、特定論で白黒つけないと気が済まないというのは海事知識がないからと思える。 前島らは、この太政官指令は、もともと「曖昧」して問題先送りするために、このような用語をしたのではないのかという第三の観点が根本的に欠けてる感じがする。 所詮、「外一島」という、明示的な定義がされてないものでしかないのに、何故、「(曖昧な用語について)島を特定しようとする観点だけは主観でもなく独自研究でもない。」と断定できるのか? 「前島らは、混乱する海図の現状を踏まえ、この太政官指令では故意に曖昧表現にして、日朝修交条規や修信使の要請にもとづいて数年以内に行われるであろう海軍水路局による鬱陵島近海の測量調査で、どのような調査結果が出ても、この指令は陳腐化しないような表現にしておこうとしたのではないのか?」いう観点に対して「それは独自研究だ」という非難には合理性を見出すことはできない。所詮は明示的な定義のない表現なのである。 竹島について日本領派にせよ韓国領派にせよ、どちらにせよ、その領土問題に執着した論説思想は、六分儀や精確な時計などが発明された後の海事関係者が、どのような行政思想であったかということを全く考慮してないないと感じる。 この太政官指令を「竹島(鬱陵島)以外の島についての明治政府の領土権の認識」として見るのでなく、領土がどうだこうだ以前の問題として、より純粋に科学的な観点から、明治時代初期という産業革命後期中という世界的環境に加え、更には国内問題としては開国による奔流のような膨大な技術移入による社会変革に必死についていこうとする人々による、「より精確な地図、海図にもとづいた欧米先進国並の政治、行政をしたい」という人たちによる対応、として捉える観点が出てこないのは、おかしいと思う。 --125.1.223.51 2008年12月19日 (金) 16:25 (UTC) 日韓ともに朝鮮王朝の「于山島、松島」の認識の変遷をともに見落としてるが、それどうするの?1、竹島一件(安龍福事件)1692年 安龍福は鬱陵島から見える松島について終に正確な方角を言うことはなかった。 実際に安龍福は鬱陵島に上陸していたわけだが、安龍福が鬱陵島からもし実際に松島を見ていたなら、 「方角」を言わないということは「海の男」としてはありえないことなのでさる。 竹島一件後も、安龍福は終に、一度も鬱陵島から見える松島の方角について正しく言ったことはない。 つまり安龍福は日本に連行されて松島の存在を日本人から聞いた後、なんらかの意図を持って、 「于山島は松島」とこじつけの主張をはじめたことが明らかである。 2、そのようすを「妄作」(1697年2月14日に対馬藩が安龍福について朝鮮の東莱府使に問い合わせし、それに対して朝鮮政府は回答書で安龍福について評価している。)」の性癖があった安龍福の都合のよいように主張したことが記録されているのが『粛宗実録』(1728年)である。 3、その後、安龍福の牽強付会に迎合し憶測や歴史捏造で、『東国輿地志』(1656年)について安龍福が主張したようなことと似ている「後講釈」の捏造記述が現れる。 「輿地志云 ・・・一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也」(『旅菴全書』巻之七「疆界考」申景濬1756年) 「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(『東国文献備考』の「輿地考」申景濬1770年) のような捏造歴史記述が現れた。現韓国政府は『東国輿地志』(1656年)が、安龍福事件以前に編纂された官撰書物であることから、この申景濬が記述した「輿地志云 ・・松島・・・」をもって「朝鮮人は古来から松島の存在を知っていた。松島は于山島だ。だから倭人の言う松島は朝鮮領」とこじつけるような、安龍福と同じ主張を繰り返してきた。が最近、「消失された」とされていた『東国輿地志』(1656年)が見つかり、申景濬の言うような記述はされてないこと(『東国輿地志』に松島云々の記述はないこと)が判明した。つまり、1694年以前に朝鮮人が松島を視認していたという韓国政府の主張は瓦解した。) 4、その安龍福や申景濬の主張を鵜呑みにした記述は、その後、次々と現れ「日省録」(1760-1910官撰)にも見られるようになり、1793年の頃では『東国文献備考』の記述を受け入れて、 「臣按本曹謄録 蔚陵外島其名松島 即古于山國也」と「于山島等=松島」の観点の記述をするようなるが、その後、1807年頃になると、1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり、 「北有于山島周回為二三里許」と、于山島は現在、竹嶼と呼ばれる島という意味になっていく。安龍福の「于山島=倭人が言う松島」がいつまでも現場確認(検証、視認)できないから、否応なく今度は別な島に比定が始まったのである。「太宗実録に出てきた于山島は架空島だった。」とは歴代朝鮮王朝の役人は言えなかったからである。 1808年編纂の『万機要覧』軍政篇にも『東国文献備考』の「輿地考」での申景濬の記述が、そのまま写されたが、ここでの記述の「倭人が言う松島」とは、もはや以前の「倭人が言う松島」の位置とはまる違っていた。 もともと松島の位置を知らなかったからである。 それは、日省録の記述から明らかで、朝鮮人が言う「倭人が言う松島」とは竹嶼(チクトウ)のことを意味するようになっていた。 つまり19世紀末にいたるまで、朝鮮政府は「倭人が言う松島」の位置について、実際には把握してなかったことが明らかなのである。なんと、安龍福以来、朝鮮人たちは存在位置かわらない「松島」に于山島だと比定していたのである。 ただ、ときとき「于山島は松島」だと主張した「妄作」の癖があった安龍福の牽強付会を妄信しただけでなのである。 かすかに、朝鮮側には「チャンス」があった。竹島一件が起きた後の1694年、朝鮮王朝政府は張漢相を隊長とする鬱陵島調査隊を派遣した。その調査報告書「欝陵島事蹟」 (1694年張漢相編纂)で 張漢相は「はるかかなた東南東方向に島が見えた。」と言ってる。 しかし彼は、その島の名前を言っていない。つまり島の島名が比定されてない。 そして鬱陵島から「東南東方向に島が見える島」の話はこれっきり、後は、朝鮮史にはまったく出てこないのである。そうして「朝鮮は17世紀から、松島を朝鮮領だと認識していた。」と強弁できる最後のチャンスさえも朝鮮政府は失った。 もし、現在の韓国政府のような「于山島は日本の言う現竹島。江戸末期まで倭人が言ってた『松島』だ。」ということなら、遅くとも、張漢相の時から朝鮮政府は、より明確に「この鬱陵島からはるか遠く東南東の方角に見える島こそが倭人が言う松島、つまり于山島である。」という主張の記述が、その後、相次いで見られなればならないが、そういった記述はまったないのである。張漢相においてさえ、それはなかった。 5、朝鮮政府は公式に19世紀以降は「于山島=松島=竹嶼」という認識になっていた。その「朝鮮人が言う松島」は「日本人(倭人)が言う松島」とはまったく違っていた。そのことは『日省録』『承政院日記』や『啓草本』から明らかである。朝鮮政府は、時代によって気がつき方は異なっても、安龍福の主張は「牽強付会(妄作)」と気がついた。だが「太宗実録に出てきた于山島は実は架空島だった。」ともいえないかった。 鬱陵島空島政策に対して数百年間にわたって違反をし「于山島産鮑」を漁獲し、販売して続けていた業者や、 その「于山島漁業者」の存在を数百間にわたって癒着・黙認してきた朝鮮半島東海岸の「ヤンバン」たちは、 「実は、これまで于山島産鮑とされていたものは鬱陵島産でした。」とか、「太宗実録に出てきた于山島は、実は空島政策違犯を隠蔽するための財官癒着の方便でした。」なんていえるはずがなかった。一族郎党、職を失うからである。なにせ数百年にわたって構築されてきた「于山島産鮑産業構造」は、朝鮮半島東海岸の各漁港の「隅々まで浸透」しきった朝鮮半島東海岸の「代表的社会構造」、否、もはや「地域的伝統・文化」になっていたから、その構造の最上級層で甘い汁を吸っていたヤンバンたちが、それを覆すことなんてはできっこなかった。 --116.82.151.88 2008年12月22日 (月) 19:20 (UTC) 116.82.151.88さんの書き込み116.82.151.88 さんの本文書き込みを一旦下へ移動しました。この内容は于山島にもあり、唐突な内容であえて必要ないと思います。また、書き込み位置も適切でなく、ご自身の断定的考えによる結論付けは、百科事典として好ましくないと思います。この内容は、于山島への誘導で十分ではないかと思います。--于山 2008年12月23日 (火) 14:03 (UTC)
いつの時代にせよ政府の行政をナショナリズムの領土的意図の面だけにこじつけるというのは偏見、偏狭でしかないナショナリズムの面でしか歴史を見ないものというものこそ、ナショナリストではないのか。 そういったものたちがする議論は、政治権力闘争に偏執した偏執狂のたちのするのに似ている。 明治時代初期というのは、日本の場合は、数百年間、鎖国によって移入が阻害されて溜まっていた先進科学技術、産業革命の終期といえどもホットな最先端科学技術が、二重の意味で奔流のようにわが国に移入されたときであった。そういったことを否応なく肌で感じざるえなかったのが海事関係者、測量技術者たちである。 まして明治開国時という、大航海時代に積み重ねられた海洋測量技術が円熟期に入ってきたとき、三角測量の不向きな陸から遠く離れた島においては、既に、18世紀初頭に発明された六分儀などの近代的測量器具を使って測量したうえで島の比定をすることは海洋行政で不可欠なことになっていたわけであって、そのような測量器具による測量結果の根拠にもとづかず時の政府(前島密ら)が島の管轄について明確な意図もって指令を出したなどと考えるのはあまりに海事の世界を知らない非常職なものたちのすることとしか言いようがない。 前島密も長崎海軍伝習所出身であったから、近代的な海洋測量技術、六分儀や正確な時計などの有効性を十分に知っていた。その彼が、明らかに外国領と歴史的に明確になってる島ないざしらず、それ以外の島についても、島嶼の調査項目(測量方法、検査機関、検査責任者、島の位置、島の大きさ等等)について不明確なまま、その島の管轄権を定めたなどという前提の論議はもはや「自虐史観」という以前、海事の現場を余りに知らない非常識際まりない「頭デッカチ、文学的歴史馬鹿」のナショナリズム政治的偏執者らによる書生論、机上の空論、妄想、「自暴自棄史観」の類ともいうべきものである。当時の海事関係者にとっての六分儀やマリンクロノメーターは、今の海事関係者にとってGPSに相当するような必須イテムであった。だから、そういった器具を使わないで、まともな測量がされないで描かれた100年以上も前の図面をもとに管轄権の判断をするとなどということは、今の政治家や行政マンが、明治時代以前の海図をもとに管轄を決めたと主張してるに等しいのである。 六分儀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%88%86%E5%84%80 マリンクロノメーター http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8E%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC --116.82.151.88 2008年12月23日 (火) 23:56 (UTC) 于山さんの因縁つけにおまえさん、何様になってるつもり? おまえさん、少し頭がおかしいんじゃないの? 于山島にあるからってどうして「唐突」なの? おまえさんにとって唐突だとどうして、いけないの? おまえさんみたいな奴に限って「断定」的な表現でなければ「推測」「憶測」だって因縁つけるんじゃないのか? いい気になるのもいいかげんにしてくださいね、于山さん。
>して好ましくないと思います。この内容は、于山島への誘導で十分ではないかと思います。 >于>山 2008年12月23日 (火) 14:03 (UTC)
「唐突」かどうかは于山さんの私的、恣意的な価値観だと思います。
それは単に「技術畑」ということではなく、言葉でも他人を斬れば、斬られた人は血の出る生身の体であることを知り尽くしていたから、他人の痛さを知っていた賢者達だったから、他人から恨みを買うこともなかったのだろうと思うしかありません。 --125.1.225.214 2009年3月23日 (月) 20:29 (UTC) 「わからないこと」「わかったつもりになってはならないこと」を、「からないこと」として淡々と自覚し続けることができるのは科学者や為政者として不可欠の資質だと思える。 --FIGHTINGFREEDOM 2009年5月29日 (金) 04:01 (UTC)
この頃の日本の地図は、日本の本土を近代的測量により正確に描いているが、その多くの地図は鬱陵島を「松島」として描き、鬱陵島の北西の実在しない位置に「竹島やアルゴノート島」として描いている。この二島は遠方にあるため、ヨーロッパの探検家が間違って測量した地図を参考にして描いたのではないかとされている。太政官指令の発せられた3年後の1880年、日本の軍艦「天城」の調査で島の名称が誤っていることに気付いたが、引き続き鬱陵島を松島として地図に記載する。後に島名を変更し、1905年に現在の竹島を島根県へ正式に編入している。 と書かれていますが、これは誤解と考えられます。1880年の天城の調査以前に、「松島鬱陵島」と記載がある官製/官許の地図はありません。あくまで「松島Dagelet」なのです。(もちろん実際にはこれは鬱陵島以外の何者でもありません。」水路部は、当時最新の地理情報を西洋の水路誌などで持っていて、それに他の省庁は習っていた節があります。(一方で、鬱陵島を”竹島”と書いていた民間の地図等もあることはありますし、また隠岐の猟師は鬱陵島を竹島と呼んでいたりもします。)そもそも、日本で初めての公式な鬱陵島調査である戦艦天城の調査以前では、”松島”はあくまで「Dagelet島」であり、「鬱陵島」とは確実に認識していません。「朝鮮鬱陵島」はあくまで竹島(アルゴノート)と思っていたのですが、China sea directoryなどでPosition doubtful認定されていることを知るも、「竹島開拓願い」「松島開拓願い」がでてきているので、竹島松島は何ぞや、と確認や巡視の話になるのです。その後、天城の調査によって、初めて、「松島-Dagelet」が朝鮮鬱陵島であることが正式に確認できたわけです。これは官製もしくは官許の地図の変遷[1]を見ていくとわかります。天城の調査後は、この「松島Dagelet」が「朝鮮鬱陵島」という認識が加わり、地図上には「松島(鬱陵島)」や「鬱陵島(松島)」と書かれることになります。--烏帽子岩 2009年6月1日 (月) 12:45 (UTC)
日本は、太政官指令の時点では、『鬱陵島を「松島」』とはっきりと認識していなかったと思われます。当時の日本の地図は、松島をDagelet島と認識していますが、これを"朝鮮蔚陵島”とは認識していなかったと思われます。日本側の認識としては、朝鮮半島圖に書かれた「蔚陵島と亐山島」を日本では竹島[2]と認識していますが、この竹島を西洋式技術に基づく日本図においてはArgonaut島の位置・デザインでに書いていることが多いです。また、残った松島ですが、これは当然Actaeonが発見・調査し、地図に記した当時の松島Dagelet島を指しますが、これを日本側は、この時点で"朝鮮蔚陵島”とは認識していなかったと考えられます。水路誌や官製の海図等も、松島をDagelet島と記載はありますが、「松島蔚陵島」の記載は1880年以前にはありません。この、新たに開拓する価値があると思われるDagelet即ち松島が何かわからないのが日本政府であり、(実際はもちろん鬱陵島の事なのですが、)、しかし、磯竹島略図に書かれている「松島」は小さい二つの岩で、聞いているような松島(Dagelet)とは大きさも形も全然違う。しかし、調査もしていないので、話題になっている松島が何であるかわからない。それ故に外一島としたと考えられます。日本側が、松島Dagelet島がはっきりと朝鮮蔚陵島と認識するようになるのは、1880年の戦艦天城の測量以降になります。北沢正誠が竹島考証を編纂するにあたって出た結論が「今日ノ松島ハ即チ元禄12年称スル所ノ竹島」であり、このことから「朝鮮蔚陵島一名竹島一名松島」と言った一島三名[3]となり、これが使われるようになります。また、この天城の調査以前の概要としては、「於是竹島松島一島兩名、或ハ別ニ二島アルノ說紛、紜決セス」といっている上、調査以降、ようやく、「多年ノ疑議一朝永解セリ」といっている事はつまりこの天城の調査以前は、「疑議」が解決していなかったという裏返しでもあります。--烏帽子岩 2009年9月5日 (土) 00:25 (UTC)
「一名竹島一名松島即朝鮮国蔚陵島」太政官指令後、天城を松島Dagelet島に派遣しました。この時、現在の竹島である「江戸時代の松島」つまりリエンコールドロックのことを全く気にかけることもなく「松島Dagelet島」に直行しています。そして、この松島Dageletが「朝鮮鬱陵島」であることを正式確認し、更に、Boussole Rock(竹嶼)を竹島と確認しましたが、このことを外務省の北沢正誠は竹島公証にて、磯竹島略圖にかかれた磯竹島、「つまり元禄12年称スル所ノ竹島」であり、「松島ハ古代韓人称スル処ノ爵陵島」へ行き、この時初めて「竹島松島が朝鮮鬱陵島」である、一島三名であるという結論を出しました。[4] この認識は、これ以降もたびたび「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」といった言葉として登場します。 仮に、太政官指令で、磯竹嶋略図の件で以って、「竹島が鬱陵島、松島が現在の竹島(りゃんこ)」であると確固たる確認を取って指令を出したとすれば、まず、”竹島松島”と表記すればいいだけで、竹島外一島と表記する意義が読み取れない上、その太政官指令(江戸時代の竹島と江戸時代の松島とする説(仮説))を、外務省北沢の見解(一島三名)とそれを踏襲している内務省および外務省の見解は、それらが太政官指令を否定することになり、話がつながらなくなります。よって、fighting freedom氏の述べているとおり、太政官指令の時点ではどの島か明確に結論に到達していない、と考えられます。 また、北沢の「竹島考証」において、戦艦天城の調査によって「事情愈明了ナリ」と記載していることから考えると、それ以前は、「事情愈明了ナリ」では無かった事が読み取れます。 1881.11.07 明治14年朝鮮蔚陵島へ入住の和我人民を撤諦せしめ爾後航行を禁する旨XX国政府へ照会す。 外務省上申 朝鮮国蔚陵島へ我人民の渡航漁採するもの有之由に・・・・(中略)・・・・・別冊竹島所属考に明瞭なるか如く我の所謂竹島一名松島なるものにして右松島へは昨年末我人民つ渡航して漁採する者往々有之候得共追々帰航可致趣に相聞候果して然らば其昔及通知速に彼の猜疑を消するは今日朝鮮に対する我交際方略上必要の別紙外務省上申朝鮮国鬱陵島へ我人民渡航漁採するもの処分の儀に付同国政府へ送翰の儀は至當の件に付上申の通御聴許可相成哉左案取調仰高載候也 十四年十月十八日[5] 1881.11.29 外務省記録8324「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」 内務省が「竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書」を島根県令から「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」に付して、大蔵組社員が船到伐木しているとして外務省に欝陵島の現状を照会し注意喚起を行った(25)。 之に対して外務省は、内務省に対して返事 「朝鮮国鬱蔚陵島即竹島松島之儀二付」云々 当然「鬱陵島すなわち竹島とも松島とも呼ばれている島」と認識[6] 1883.03.01公文類集第七編 朝鮮国所属鬱陵島へ我民妄に渡航上陸するを禁す[7] 朝鮮国所属鬱陵島へ我民妄に渡航上陸するを禁す 外務省へ稟告内達 我が法人朝鮮国所属鬱陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)へ渡航し (以下略) 1883.03.明治二十三年往復簿 一 内閣記録局 北緯三十七度三十分西経八度五十七分(東京XXXXXより起算)に位する日本称松島(一名竹島)朝鮮称蔚陵島の儀は 従全彼我政府議定の義も有之日本人民妄に渡航上陸不相成X條心得XX之様其管下へ諭達可X然XX内達X也 [8] 1900.06.12.在釜山 領事官補 赤塚正輔 「鬱陵島 調査槪況 山林調査槪況 報告の件」[9] 鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分 (以下略) ---烏帽子岩 2009年9月20日 (日) 06:59 (UTC)
これを見る限り、外一島を松島Dageletであると認識していたことがわかります。 [10] よって、戦艦天城の後の「竹島外一島」の認識を、本文に付け加えてもよろしいでしょうか?--烏帽子岩 2009年11月8日 (日) 12:40 (UTC)
端的に言って初代海軍卿(元海軍奉行)の「誤謬」を明示することは「先送り」した表現だったということじゃないのか? よくいえば、そういうことになる。 岩倉具視も大久保利通も内務省としては、初代海軍卿である勝海舟が編纂した海図に対して、公式な調査もなしに「間違っている。」と表明することは避けた。 当初から、そういう意図だったからこそ元幕臣同士で軍艦奉行・勝海舟が監督していた軍艦操練所の生徒だったこともある前島密に、この指令文の草稿の仕事を任せた。 つまり、「元幕臣軍艦奉行・現海軍卿である勝海舟が編纂した海図」の間違いを確定させる責任を先送りして、海軍省にまわした。 「自分たちの間違い(海軍さん仲間の島嶼比定、意見の違い)は、自分たちで責任とって(海軍内で決着つけて)ください。」と、である。 --114.163.122.50 2010年4月11日 (日) 14:48 (UTC) 外部リンクについてLudwigSKさんへ。
指令そのものの説明について現在の「太政官指令の「竹島外一島」」の項目の中の説明に、太政官指令について「1877年3月20日に内務省が出した通達(国立公文書館所蔵)」という説明がありますが、太政官指令は内務省が出したものではなく太政官が出したものですから、これは「1877年3月20日に太政官が出した通達」または「1877年3月20日に右大臣岩倉具視が出した通達」とするのが適当と考えます。 また、この場合の「通達」という言葉ですが、この太政官指令も広い意味では通達と言えるのかも知れませんが、一方で、これは内務省からの個別の伺いに対する回答であること及び伺い文の中で「御指令按」という言葉が使われていることからすれば、「通達」とするよりも「指令」としたほうが良いように思います。 --茶阿弥(会話) 2015年3月20日 (金) 15:25 (UTC)
指令の伺い文の読み方について「太政官指令の「竹島外一島」」の項の中で紹介されている指令の伺い文の現代文への書き換えについてです。全体的に意味がつかみにくいような感があるのですが、とりあえず一点、「御指令になった」という過去形は適切ではないと思います。これは、今からそういう指令を発してよいか、ということを伺っているものですから。 --茶阿弥(会話) 2015年3月21日 (土) 14:31 (UTC)
「朝鮮国交際始末内探書」の「松島」の理解について本日、「朝鮮国交際始末内探書」の項で、「多分、報告者は現地調査で、現地人から竹嶼のことを日本人の言う松島であると聞かされて、そのまま報告したのであろう。」という推定が加筆されましたが、内探者の一人である佐田白茅が内探から5年後の1875年に著した『改訂新鐫朝鮮全図』という地図を見れば竹嶼に該当する島は描かれていないので、内探者たちの認識の中には竹嶼という小島のことは無かったと考えるのが自然なように思います。したがって、「現地人から竹嶼のことを日本人の言う松島であると聞かされて」という説明は成立するのがちょっと難しそうです。 茶阿弥(会話) 2015年4月13日 (月) 12:29 (UTC) 上述された推定を加筆した者です。 『改訂新鐫朝鮮全図』に描かれている鬱陵島近くの島は竹嶼ではありませんので、内探者たちがこの島のことを「松島」と思ったとしても(私もそのように考えてはいますが)、竹嶼のことを松島と考えたということにはならないと思います。茶阿弥(会話) 2015年5月9日 (土) 12:12 (UTC) 確かに、仰るとおり、『改訂新鐫朝鮮全図』に描かれている鬱陵島近くの島は竹嶼ではありません。しかしながら、この図で、鬱陵島近くの隣島と表現できる島は、南側に記載されている無名島しかありません。
『朝鮮国交際始末内探書』に添付されていたはずの絵図面が今日では失なわれております。したがって、内探書がどんな報告を行なったのかは、あくまで推測の域を出ません。しかしながら、次の事柄が明らかになっております。
「外一島」という用語の使用について本日、「太政官指令の「竹島外一島」」の項で、「もし島根県が竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)とを取り上げたのであれば、当然、表題と内容は「日本海内竹島・松島地籍編纂方伺」でなければならない。」という解釈が加筆されましたが、島根県が竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)について質問したのだとしても、そうであれば必ず「竹島・松島」と表記されるべきとは考えられません。もちろん「竹島・松島」と表記することも可能であったとは思いますが、当時の島根県が江戸時代の記録を通じて把握していた竹島と松島はその大きさとか態様にかなりの違いがありましたから、竹島を重要なものと考え松島は二次的なものとしてそれを「竹島外一島」と表記したという可能性も十分考えられるのではないでしょうか。(なお、そもそも島根県が内務省から打診されたのは「竹島」一島だけであり、松島については指示されていなかったという事情もあります。)「竹島・松島・・・・・・でなければならない」と断定してしまうのは冒険のように思います。茶阿弥(会話) 2015年4月13日 (月) 12:57 (UTC)
本日(平成27年4月21日)、上記の加筆に続けてさらに、「それを「竹島外一嶋」としたのであれば、伺いの対象が無名の小島なのか、松島なのか、隠岐島なのか判らなくなる欠陥文書である。」という加筆が行われました。 しかしながら、島根県が伺いに添付した説明文書「原由の大略」では「竹島(磯竹島)」と「松島」という二つの島の名前をはっきりと挙げて説明が行われていますから、書類を受け取った側の内務省が島根県が何という名前の島について質問して来たのかを間違える余地は無かったのではないでしょうか。その証拠として、太政官指令から4年後に内務省書記官が外務省書記官に太政官指令に関して照会したときに「外一島ハ松島ナリ」という補足説明を書き加えていますが、これは内務省が島根県の質問の対象を「竹島」と「松島」と理解していたことを示しています。 島根県の伺いの対象は「竹島という名前の島」と「松島という名前の島」であったことは明らかであり、「そのため、島根県は竹島(現在の鬱陵島)および日本側では名を知らない新発見の隣島(現在の竹嶼)について、地籍編纂の可否に疑問を生じ、「竹島外一嶋」として照会を行なったと考えられる。」という結論は不適当と思います。茶阿弥(会話) 2015年4月21日 (火) 12:29 (UTC) 上述された推定を加筆した者です。 次に、内務省から打診されたのは「竹島」一島だけであり、松島については指示されていなかったことについてのご指摘ですが、当時は現代と異なり、松島は未利用の無人島であって、帰属は全く問題とされていませんでしたから、島根県が松島について地籍編纂の必要を感じたり、疑問を持ったりする余地はありません。松島を付け加える理由は全く見当たりません。 次に、「伺いの対象が無名の小島なのか、松島なのか、隠岐島なのか判らなくなる欠陥文書である。」との加筆についてのご指摘ですが、書類を受け取った側の内務省が島根県が何という名前の島について質問して来たのかを間違える欠陥文書であると言う意味ではなく、欠陥文書として発行できないと言う意味で記したつもりでした。言葉足らずで、申し訳ありません。上に記した表現に修正して行きたいと考えております。 次に、1881年の『内務省の外務省書記官宛て照会文書』に、甲号として添付された太政官指令の写し『日本海内竹島外一嶋地籍編纂方伺』の表題に、(外一島ハ松島ナリ)との追記がなされていたことについてのご指摘ですが、多分、次のような事情ではなかったかと推定されます。
まず、マノ島についてですが、確かにご指摘の通り、『磯竹島略図』の竹嶼には「マノ島」と名前が付されていました。私は見落としていました。
まず、『磯竹島略図』のマノ島名について 次に、島根県照会文書の『竹島と松島の概要』について
次ぎに、島根県の照会文書の性格について
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