ノート:武功夜話偽書説について五宗記の部分は信憑性があるという話は聞いたことがない。多くの専門家も認めているというが具体的に誰なのかも明らかにすべきである。(もっとも武功夜話肯定派の似非学者では意味がないが)--以上の署名のないコメントは、219.30.132.95(会話/Whois)さんが 2005年7月7日 (木) 17:59 に投稿したものです(利用者:Chutaによる付記)。
なお、上記加筆を行われたIP:61.197.157.84(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)氏についてですが、更新先に「武功夜話」関連人物・事項が多いことやIPアドレスからみて関係者ではないかとも思われるのですが。 --こぶまき 2008年8月29日 (金) 04:34 (UTC)
現在は小和田哲男氏が原本調査し、学術論文により、『武功夜話=一級史料を側面から補完する史料』との方向性を示しており、同様の認識がなされています。(武功夜話≠超一級史料) 詳しくは「家伝史料武功夜話の研究 日本歴史学会編集『日本歴史』2008年8月号」を確認して下さい。写本類(原本)の系統が明らかになり、偽書説者の推論が成り立たなくなりました。また、偽書説者を強く批判しています。これは学会編集でかなり信憑性のある書籍ですので、今後はこれらをふまた上での記述や著作が必要となります。 偽書説の出典元である「偽書武功夜話の研究」は新書版であり、関連書籍の中で一番流布し、入手可能な本です。一読して本に引き込まれ、その分、偽書と誤認されている方が多いのは理解できます。(原本未確認で出版されています) 知らない方が多いようですが、現在では藤本・鈴木「偽書武功夜話の研究」・勝村「偽書の日本史」は誤認である、と証明されています。 原本未確認ではいくら叫んだところで正当性の根拠となるわけでもなく、嫌がらせや偽証の元となってしまいます。今までの認識を替えるのは痛みを伴いますが、実際に原本確認された方々の評価に準拠するのが妥当である、と考えます。 過去の投稿を見てみると、偽書説者が自己HPへのリンクや自身の著書・懇意にしている人の著書の投稿が見受けられますが、それこそ中立性に欠けるのではないでしょうか?--61.197.157.84 2008年10月1日 (水) 16:57 (UTC)
ブログから引用します。あの武功夜話を題材とは、どの様な反論をされるのか興味深々。 有名になった、明治になってからできた地名の反論はウヤムヤで終わった様な気が、、 武功が、先頃話題になった絵本拾遺信長記の文章と近似している事を指摘されてる。 絵本が、1801年から1804年の成立と言われてるので、絵本のほうが武功を参照したのかと、思わすが、武功の原本には見られず、亀仙と言われるものが書き写した武功に見られる。 つまり生きた時代に、絵本を参考に膨らましたようだ。 また、ちんぷんかんぷんと云う言葉が出てくるらしいが、この言葉も十九世記初頭の滑稽本に出てくるのが早い例で、この点からもこの頃の成立ではないかとの指摘されてる。 信長の生きていた同時代史料ではないのは、明白、語るに落ちるとはこのこと。--Reonareona 2008年10月9日 (木) 10:27 (UTC)
そんなに偽書説をゴリ押ししたければ、Reonareona氏自身が歴史学プロパー学者として、学会論文発表するべきです。当然のことながら三鬼、小和田両教授陣は所定の手続きを踏み、所蔵者の理解を得た上で原本調査して判断・論文発表しています。偽書説側の研究家は自己主張を感情的に表現し、出版しているにすぎません。 また、基本的に幕府や諸藩が庄屋の家伝書を保証することはない。名前は忘れたが、幕臣の家伝書でさえ幕府から隠しており、最近公開され新事実が明らかになったたものとか相次いでいるのに、それを根拠に偽書と決めつけるのも稚拙です。 ちなみに、勝村氏「『武功夜話』異聞」は「偽書の日本史」の書籍化+三鬼批判で構成されており客観的な根拠はありません。以前に三鬼の偽文書判断を錦の御旗に批判したが、後に三鬼自体が肯定し直したので面目潰されたとの新聞報道がありました。~異聞、批評社出版とされているように、史料批判を主眼としたもので正面から見たものではありません。一般書での発表なので、目に触れる機会は高いと考えられ、これからも「偽書である!!!」と誤認する人が増えるのは予想されます。著書は論点が微妙にずれていました。武功夜話に関して書いたものというより、武功夜話を利用した自身が考える郷土織豊史といった作りです。自分のが正しいので武功夜話は偽書であるといった論法です。 どうも私見では、わずか1㎞隣で発見されたがゆえのアマチュア郷土史家なりの嫉妬が根元で、肯定に値する重要事項を故意に隠している気がしてならない。もし、あと1㎞東なら率先して活字本出版の旗頭となっていただでしょう。刊行書籍出版に関われなかったという悔しい思いが偽書説の根元と容易に判断できます。翻刻本を元にした研究を拒否していることから、よく言われる武功夜話を利用した富と名声を企む輩の一人でしょう。なぜ、今頃否定された主張をむし返したのか?と甚だ疑問であったが、小和田氏調査の情報を察知して自身が否定されるのを恐れたのでしょう。単に振り上げた拳を下げれられないだけ、本人自ら晩節を汚すとは哀れな御人ですね。早瀬氏は自家出版の批判が中心で信頼に値せず、客観的な議題の場に挙がったこともないはず。異聞と称し、ただ自己HPで便乗して吠えているだけ。その方がまだかわいいもの。著書に2人は懇意だと書いてありますしね。偽書説者と学識者を並列だと思いこんでいる方がいるようですが、判断材料・見識をみても雲泥の差です、発言の階層が違います。史料研究に対する姿勢が問われているのです。ハッキリ言って親に叱られた子供(偽書説者)です。無駄なプライド捨て、史料研究の熱意に変えて欲しいものです。 あくまでも偽書説は不純物を取り除く精錬作業の1つにすぎません。かえって武功夜話が学術的に証明されることに繋がるのです。 このことからも、あたかも偽書説が全てを包括しているかのように投稿するのは誤認の元です。 Wikiは個人的主張を展開する場ではない。実りある場にするには客観的に判断するべきです。したければ自己HPを立ち上げ、独自展開することをお勧めします。 史料的価値は、偽書説・肯定説両者とも集約された所定の場所に書くべきです。もう出尽くした感がありますが。--210.229.77.46 2008年10月10日 (金) 07:47 (UTC)
210.229.77.46記述に付記します。Reonareona氏のブログ引用はあなた自身ものですか?それとも他者の無許可転載ですか?引用部分「武功~指摘されている。」は写本『21巻本』に対して言及した章のはず。武功夜話全体を判断したものではない。また、偽書の定義も誤認があるよう見受けられますね。あえて内容の詳細は触れませんが、論文はおろか、刊行書籍すら読んでいないことが露呈しているようですが。 この孫引きこそが誤認の典型的な例です。Wikiは何も知らない人が読んで誤認無きように記述すべきです。--210.229.77.155 2008年10月10日 (金) 16:45 (UTC) いわゆる肯定派の人だけに秘密裏に一部の「原本調査」をさせるのは真の意味での学術調査とは言えない。批判者には一切原本を見せないどころか、原本の全文の公開も写真による全体の公開さえも拒否しているのは史料性を疑われて当然。武功夜話が古物偽作者による偽造物であることを見抜かれるのをおそれていると言われても仕方がない。武功夜話に頻出する現代的言い回しはこれが現代の偽作であることを明証するものである。ウィキペディアが真実に忠実な辞典であろうとするなら、肯定派の何ら根拠のない信仰告白に多くの文章を割く必要はないであろう。--123.198.67.191 2008年11月2日 (日) 05:43 (UTC)
正直上の文章を読んで唖然としました。結局の所肯定派は、信用すべき何の根拠もあげられないじゃないですか。 >否定派に言質取られて材料にされたみたいで。直近上記のような文章(5~10年以上も前の認識)を書かれる方ですから、武功夜話自体把握できていないのでしょう。まず把握するだけで膨大な時間がかかるはずですが。 ふうん。じゃああなたは武功夜話の何を把握したって言うの? 正確に表現してください。だいたいあなた自身武功夜話が本物であるという根拠を把握してないじゃないですか。「きちんとした根拠があるようです」っていうだけなんだから。 >まず把握するだけで膨大な時間がかかるはずですが。 こういうことは東日流外三郡誌の信奉者も言ってました。でも信奉者に限ってはその全体を把握する時間が不思議にも与えられていると言うことですね。 >わかる方にはわかると思います。肯定側に近い方が、心ない投稿者に無駄な労力を取られる事をするとは思えない。きちんとした編集をしている方が無駄な労力を強いられ、否定的意見を一気に受けている現状です。私自身、自己編集を固持する気はありませんが、真実に忠実であろうとするならば、今後、間違いなく肯定側で証明されていくので、 全く根拠が書いてありませんね。「わかるひとにはわかる」「間違いなく肯定側で証明されていく」という言葉がある限りで、これでは疑いの目を向けられて当然でしょう。 武功夜話が信用されないのは、内容がおかしいことのほか、言葉に現代的言い回しがめだつこと、原本の全貌が公開されないことです。とくに21巻本は活字本の原本になったものですから、当然吉田蒼生雄氏が見た原本が全文公開できるはずです。にもかかわらず写真ですら公開しない。どんないいわけをするつもりか知りませんが、これでは、元々そんなものは存在しないのだろう、出せと言われて古美術商に頼んで必死になって偽作するのだろうと言われても仕方ありません。全く以て自業自得でしょう。--218.110.144.254 2008年11月2日 (日) 12:55 (UTC)
そもそもウィキペディア参加者に判断権限はないし、中立的観点に基づく両論併存併記ですから両論が記述されている事に問題はないのでは?但し、明らさまな違いがあるので並列ではないでしょう。私は否定側の内容には疑問を感じるが、削除しておりません。肯定側のあからさまな削除には疑問を感じます。ノート議論の合意形成点はこの両論併存併記にあるのでは?私は既にこの点に合意済みです。肯定側や偽書説批判の部分を執拗に削除しなければ私はそれで合意します。削除している人がオタスケマン系のIP改変なら無意味だが。--210.229.77.143 2008年11月3日 (月) 08:00 (UTC) で、あなたは武功夜話の何を把握したの?w 偉そうに否定派は武功夜話を把握していないと決めつけたんだから、あんたは何を把握したのか明確に言う義務があります。 >5~10年くらい前の認識を平気で書いているので、 ふうん。それがどの部分で、ここ最近の事実によりどう論破されたか言ってみれば? >現代仮名遣いでも問題ないはずです。 現代仮名遣いであることなどことなど問題にしてませんが何か?(ホントは好ましくないが) >意訳も含まれているみたいですし ハア? 武功夜話を「把握」してるはずの御仁がこともあろうに推測で勝手なこと言いますねw あんたそんなことを語る根拠があるのかよw 21巻本を写真でもいいから全文公開しろよ。しないから疑われるんだろうか。本当は真っ赤な捏造だってw 以上見てきた通り、肯定派は真実をあかすことに不誠実な態度と、否定派にたいする根拠なき言いがかりと、指摘されたボロに対するいいわけに終始しています。--120.75.247.209 2008年11月4日 (火) 21:13 (UTC)
:さらに横から失礼します。原書の一部が愛知県江南市と都内において公開されているそうです。興味のある方はご自分で見てみたらいかがでしょうか。私は肯定派でも否定派でもなく、さらにこの文書の信憑性についての研究が進むことを望んでいるだけです。念のため。ただ、小和田氏の論文によれば、少なくとも近代以後に作られた偽書ではないと見てよさそうですね。あとは正確さ、史料としての価値評価の問題ではないでしょうか。--漬けマグロ 2008年12月27日 (土) 09:20 (UTC) :「武功夜話」の研究が進みますように、気付いた点をノートしておきます。「武功夜話」での洲股に砦を築く際とそれを検証しに行ったところでの話で、現在と過去では大きく変わってしまったという話です。 現在の境川(昔の尾張川)は、「日置江五十石」交差点付近で南に向かっているが、これは昭和17年頃に新たに掘削した川です。これを多くの解説では戦国時代にもあったかのような書かれている。過去は「日置江五十石」交差点より西で境川は長良川と合流し、この付近より墨俣川という。江戸時代末に描かれた「美濃路街道」にも描かれている。このことは「武功夜話」の記述が正しい。 「小松原」、「大松原」を松原と表現されているが羽島市小熊町に「小松生」、「大松原」という地名がのこり、昭和より前まで松原であったことで知られている。「小松生」に小山が存在する。ここには複数の寺社が戦国時代まで存在し、「蜜寺」で盂蘭盆は行われていた可能性が高い。信長が洲股を焼き払ったころ(1561)より寺社は衰退し、万治元年(1658)ごろまで荒地同然で、さらに元禄十年(1697)まで畑と荒地が拡がっていた。荒地が拡がっている頃に、著者が洲股の砦を検証している。このことは「武功夜話」の記述が正しく、現在では知りえないこと。 墨俣川の渡しは羽島の一乗寺の地蔵堂の裏にあったという伝承がある。このことが正しければ、「武功夜話」の地理的な内容も正しい。これも現在では知りえないこと。 と憶えていることだけですが、参考になればと思います。 --尾張旅 2011年7月31日 (土) 11:54 (UTC)
1.尾張と美濃の境は現在と違うこと。尾張と美濃の境は戦国時代より前の葉栗郡の北と西(http://www.mirai.ne.jp/~homenews/bukouyowa/bukouyowa_no14.htm)で、現在の地名からみると各務ヶ原、笠松、羽島は尾張国に属していました。しかしながら戦国時代ごろには、現在の木曽川が大きくなっていました。これを豊臣秀吉が、羽柴から豊臣になるころ、小牧長久手の戦いがあったころに、秀吉の意向で葉栗を分断し「羽栗」と「葉栗」にしました。このことが以下の記述にある。 「古事類苑」より 〔鹽尻 三十三〕 一日本紀に、尾張美濃の界を鵜沼河といへり、豐臣家妄り(みだり)に國界を私になしてより、尾張の地濃州と呼地多し、 〔新撰美濃志 一美濃二十一郡〕 郡はむかしより十八郡なりしを、天正の中ごろ、豐臣秀吉公尾張の地三郡のうちの村々を割取て、當國につけられしより、今の如く二十一郡となる、 〔張州府志 十七葉栗郡〕 建置沿革 延喜式其餘諸書、皆作二葉栗郡一、又作二羽栗郡一、古者踰レ河西北隷二于葉栗郡一、以二墨股河一爲レ界、天正十二年、秀吉擊二尾州一取二河西諸邑一、其後與二信雄一和、遂割二河西一隷二于濃州一、蓋懼二神祖西征一、以二大河一爲レ防也、至レ今河西地、猶呼爲二羽栗中島海西三郡一、 〔新撰美濃志 一美濃二十一郡〕 羽栗郡は、厚見郡の南にありて、東より西へ細く長し、東は各務郡にさかひ、南は木曾川を隔て、尾張國の葉栗郡に接し、南西は中島郡に至り、西の隅にては岐阜川を隔てて安八郡にさかひ、北は各務厚見の二郡に隣れり、もと尾張の地なりしを、天正十年、織田内大臣信雄公が尾張の國主たりし時、豐臣秀吉公のはからひにて、沿河の三郡〈葉栗、中島、海西、〉のうち、百二十餘村を割取て美濃に屬られしより、今に當國の地となれり、故に古書には尾張の郡名とす、尾張にては葉栗とかき、美濃にては羽栗とかくが通例なり、和名類聚抄に、尾張國葉栗〈波久利〉と見えたり、同抄に葉栗五郷をのせたるうち、葉栗の郷は當郡の本郷村なるべく、延喜神名式に、葉栗郡十座のうち阿遲加神社、川島神社と見え、尾張國神名帳の葉栗郡十二座のうちに、從三位阿遲加天神、從三位川島天神、從三位生島天神としるしゝなンどは、當郡の地なるべし、又仙覺法師が萬葉集の抄に引ける尾張風土記に、葉栗郡河島社、在二河沼郷河島村一、奈良宮御宇聖武天皇時、凡海部忍人申、此神化爲二白鹿一、時々出現、有レ詔奉レ齋爲二大社一焉とあるもしかなるべし、〈〇中略〉高二萬千七十四石八斗九升六合、六十五ケ村〈古高帳には、一萬九千五百五十九石餘、五十七ケ村とし、新高帳には、八十三ケ村とす、〉 「武功夜話」からみると、秀吉の初めての知行地または代官として活躍した地が「羽栗郡」である。他の資料からみると「葉栗」の分割、改称には秀吉のそれなりの思い入れがみれる。ちなみに「中島郡」も分割するが、改称はしていない。現実に残る地名と資料からみるに、秀吉の初めての管理地である「羽栗郡」のことを記述する「武功夜話」は偽書とは言い難い。(何故に美濃かは分からない。)このことは現在の地図からは分からない。 2.戦国時代まで墨俣という固有地はなかった。公式な古文書に墨俣という地名は見当たらず、「墨俣の渡し」周辺を墨俣と読んでいる。このことが、吾妻鏡にもみることができる。(http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-10.htm) さらに、『吾妻鏡』(巻三)の寿永三年二月一日庚申の條に 蒲冠者範頼主蒙御気色。是去年冬、為征木曽上洛之時、於尾張国墨俣渡、依相争先陣、与御家人等闘乱之故也。其事今日巳聞食之間、朝敵追討以前、好私合戦、太不穏便之由、被仰云々。 とあり、ほとんどの場合は尾張国墨俣(現在の羽島市小熊町)を指すことが多いが、「墨俣」は呼称であることが分かる。昔の墨俣町の説明には、江戸時代に入るころ、美濃路が整備されたころに安八郡の「墨俣の渡し」周辺を墨俣としたとあった。現在は、墨俣町が過去の「墨俣」と思われがちだが、実のところは長良川を挟んだ「大垣市墨俣町」と「羽島市小熊町」を「墨俣」と読んでいた。 現在の墨俣町から「武功夜話」を追うと相違点が多いが、「大垣市墨俣町」と「羽島市小熊町」を「墨俣」と読んでいたことから追うと相違点はない。ちなみに、小牧長久手の戦い時に「地蔵谷」に陣を置いたと「太閤記」に出てくる。これは、羽島市小熊町の一乗寺の西側のことであり、「地蔵谷」と呼ばれたころに周辺に寺はなく、地蔵堂だけがポツリと建っていた。「武功夜話」の江戸時代の検証記に間違いはない。 3.現在の一夜城の位置が違う。小熊町周辺の伝承では、一夜城は「岐阜市日置江2648-1」の「岐阜運輸支局」で、「武功夜話」の記述どおりに美濃と尾張の境で、川と道の合流点で、道は加納、各務ヶ原、竹鼻と通じている。地形は、周辺より小高く造ってあり、「岐阜運輸支局」の南側の境川の川底には石垣を積む際に利用された四角い墓石などが見られ、「武功夜話」の記述どおりである。周辺は室町時代からの「高桑桜」で囲まれており、かなり昔からの造成が見られる。 しかし、現在の一夜城からは、「武功夜話」の内容を追うことができない。逆に言えば、「武功夜話」が偽書である論拠になっている。 --尾張旅 2012年4月9日 (月) 10:54 (UTC) 冒頭文について冒頭なので諸説の記述が不可侵の領域だと思います。 オタスケマンの操り人形と疑われるユーザーが改変していましたので、この部分は書籍発行当初の記述のままで良かったかと思うのですが。--210.229.77.199 2008年10月11日 (土) 01:18 (UTC)
ウィキペディアは研究者の評価を行うところではない。それぞれを普通に記述するだけでよろしい。もし「この人の考えは取るに足りない」とした研究者の言があるのならばその言葉自体を載せるのは良いが。--61.116.192.71 2008年11月2日 (日) 05:54 (UTC) 無駄な労力を取られるので保護には賛成です。 現状に即した場合、「この人の考えは取るに足りない」となるならば、否定側の9割の文章が消えることになります。中立性に反するので私は消しておりませんが。--210.229.77.53 2008年11月2日 (日) 08:50 (UTC)
オタスケマンの操り人形と疑われるユーザーへの対応について冒頭改変の利用者:Reonareona(会話 / 投稿記録)氏と利用者:Armyended(会話 / 投稿記録)氏は同一人物と考えられ、他のページでの状況と共にオタスケマン[1]の操り人形と疑われるユーザー[2]の疑いがありました。期間毎にアカウントを変更しているようです。またアカウントを変えて出没が予測されます。 冒頭部分の強引な変更を指摘してしまいましたが、今後は内容云々の議論ではなく、改変したか否かでの差し戻し対応でよいかと思います。 今後の出没もふまえてブロック依頼等の必要があるかと思いますが、よく分からないので誰かアカウントユーザーの方が代行していただけるとありがたいのですが。--210.229.77.68 2008年10月11日 (土) 01:28 (UTC)
概要部分の要出典箇所について利用者:とーとととさんの要出典タグ貼付と記事要約を見かけたので、ネットですが検索してみました。 >『380年ぶりに蔵の中から発見!!」というのは宣伝文句である』 と全くの同一記述は見当たりませんが、江南市のHPの観光歴史のページには、 「武功夜話 > 1.衝撃的な発見 380年ぶりに陽の目」 と題され、以下に詳しい解説が記述されていますね。・・・・・・(江南市HP) それで他にも、個人ブログに、藤本正行・鈴木眞也両氏の著の『偽書「武功夜話」の研究』(2002年、洋泉社刊)のうち藤本正行氏のまえがきを紹介しています。この中に 「劇的に“発見”された」、「発売当時の宣伝文に「伊勢湾台風で旧家の土蔵が崩れ、三八0年前の戦国文書が発見・・・」(以上、同ブログ中の引用文の一部引用・・・[3]) の文言があるので、該当個所の投稿記述はこれを根拠にしているのかも知れませんね。--故城一片之月 2008年12月12日 (金) 14:41 (UTC) 利用者:故城一片之月さんありがとうございます。 記事要約文、途中で途切れているにもかかわらず、紳士的な対応をしてくださってありがとうございます。 私が要出典タグを貼り付けたのは、「当時古文書発見が報道されたわけではなく、刊行者の証言にとどまる。」と言う部分で 「当時、新聞報道はされている」「昭和34年に発見されたというなら、昭和34年当時の新聞記事そのものを引用してください。) 」という議論があったので、貼り付けさせていただきました。 どちらの主張が正しいにせよ、それは単純な事実と言うよりもどなたかの研究や主張に類するものであり、出典があれば問題の解決につながると思ったからです。 ですが、故城一片之月さんが教えてくださったブログでおそらくは藤本・鈴木両氏の『偽書「武功夜話」の研究』の引用と思われる年表に 「九月二六日、伊勢湾台風で愛知県下に大被害。その際、江南市の吉田家の土蔵が壊れ、「前野(家)文書」(のちに“武功夜話”と呼ばれる)が発見されたというが、裏付けがとれない。 」 とありますね。今、『偽書「武功夜話」の研究』が手元にありませんので、この本のお持ちの方やこの問題に詳しい方に編集をお任せしたいと思います。失礼いたしました。 --とーととと 2008年12月13日 (土) 05:19 (UTC)
「史料的価値に対する論争」について現在の記述では「肯定説→否定説」の順に記述されていますが、そもそもこの両説は否定説(偽書説)が先に出てきて、それに対する反論として肯定説が出てきたわけで、順序を入れ替えて「否定説→肯定説」の順にすべきではないでしょうか。現状だと、いきなり否定説への反論から始まるので予備知識がない読者からすれば理解しづらいと思います。--SINOBU 2009年10月11日 (日) 11:33 (UTC) |
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