ノート:早稲田大学/過去ログ2
概観の部分について「かつては私学の雄として知られた」となっておりますが、現在でも私学の雄と言えば普通は早稲田、慶應両校を指すものと考えられます。 この部分は現在形に直すのが適切かと思われます。--以上の署名のないコメントは、126.17.205.43(会話/Whois)さんが 2008年2月17日 (日) 15:07 (UTC) に投稿したものです。 早稲田祭について細かいですが正式名称は 「早稲田祭【年号】」運営スタッフ であり、」の箇所が違います。 編集できる方修正よろしくお願いします。--以上の署名のないコメントは、125.55.110.97(会話/Whois)さんが 2007年10月27日 (土) 16:59 (UTC) に投稿したものです。 大学院の組織について記述をお願いします。どなたか大学院の組織について記述をお願いします。--Tokyo Watcher 2007年3月28日 (水) 14:15 (UTC)
大学設置年号について早稲田大学は1882年に専門学校として設立されたので、1920年に大学令に基づく大学になるまではたしかに、大学ではありませんでしたが、現在『大学創立125周年』と早稲田大学では創立を基準にしており、専門学校か大学か否かは関係なく『~周年』と論じられておりますので、 創立は1882年。大学令に基づき大学となったのは1920年と両論併記としたのほうがよいのではないでしょうか? またこのことは、大学記事全般に関することであり、この記事内のノートで議論することは不適切かもしれませんが、創立と大学令に基づく大学の年号が違う場合、両論併記の形がよろしいと思うのですが、どなたか意見をお願いします。--nacky_t12 2007年5月7日 (月) 14:58 (UTC) 最近出来た大学では創立年=設置年であることが多いので誤解を受けられたのだと思いますが、本来教育関係では創立年と設置年は全く違う意味になります。創立年はその教育機関の母体となる教育機関が最初に生まれた年になります。設置年は各種法令に基づいて該当教育機関が生まれた年になります。 何が違うかと申しますと教育機関自体は現在でも法令の認可無く作ることが誰でも簡単に出来ます。町の学習塾などは無認可が多数あります。一方で教育機関の種別によっては行政機関などによってきちんと認可を受け無ければならないケースがあります。ここで話題の「大学」もその一つです。こうしたケースに関しては行政機関によって認可が出された場合に初めてその存在が世に出たことになります。こうしたとき、教育機関関係では「設置」という用語を使用しますが、これは法令用語で大学設置基準に詳細がでています。 こうした法令の認可を伴うかどうかの違いがあるため、創立年は該当教育機関の主張によっていかようにでも動かすことが出来ます。もちろんあり得ないような年を出すことは不可能ですか、とある大学は創立年を江戸時代に作られた藩校としています。系譜をたどるとその藩校から教育機関としての命脈がスタートしているとその大学では主張しているからです。あるいは鎌倉時代に設立された寺社の門徒教育機関を創立年としている場合があります。さらには第二次世界大戦前の中等教育機関を創立年としてる大学もあります。大学は高等教育機関ですから中等教育機関が母体となるのは厳密にはおかしな話なのですが、このようにしている大学もあります。しかし、設置年は法令に基づくものなので必ず証明が可能で確定する年になります。これは動きようが無く、大学側の都合で変更することは不可能な「事実」となります。 ですから早稲田大学は「大学創立125年」と謳いますが、「大学設置125年」とは謳わないのです。大学設置125年としてしまうと事実をねじ曲げることになるからです。 まとめますと早稲田大学のケースでは大学側が主張している創立年は1882年、法的に大学がこの世に誕生した設置年は1920年で何ら問題がありませんから両論併記の必要はないということになります。--秋の虹 2007年5月7日 (月) 08:04 (UTC) サークル記事についてサークルの個別記事が増えつつありますが(Category:早稲田大学参照)、比較的内容の薄いものについて統合を提案します。ただ、あまり数が増えるとバランスが悪くなるので「早稲田大学のサークル」としてまとめてしまうべきかも知れません。--こまくさ 2007年5月25日 (金) 14:28 (UTC)
早大雄弁会は歴史的経緯から言っても別個の記事に仕立てるに値すると考えます。Tokyo Watcher
記事の量などを考えると、早大の雄弁会については内部リンクで対応するなどの対処をとった方がいいかもしれません。 確かに雄弁会は弁論界での雄であり、歴然たる受賞実績を誇っています。ただ、それを敢えて大学内の記事として書くことは他の部会(たとえば、鵬志会など)との事実上の差別化となり、Wikipedia本来の中立的観点から見てあまり好ましくありません。 早稲田大学雄弁会については、そろそろ新規のスタブを立ち上げるべきだと考えます。--院友 2008年2月23日 (土) 12:51 (UTC) 年表に公金不正事件のことも書いて年表に2006年に起きた公金不正事件にも触れてほしい--202.213.133.96 2007年7月13日 (金) 10:20 (UTC) 早稲田大学校歌について雅楽家(篳篥奏者)の東儀秀樹氏が、校歌の作曲者・東儀鉄笛の直系の孫にあたるとの記述は、インターネット上に流れている誤った情報に基づくもので、事実に反します。鉄笛の三男である故・良三郎氏の長女である方から伺いました。--218.110.112.77 2007年12月9日 (日) 07:13 (UTC)
早稲田大学校歌が社会に知られるようになった背景・要因について1.「校歌を歌うために結成された男声合唱団が後の早稲田大学グリークラブであ」るとの記述は、昨年(2007年)刊行されたグリークラブ100年史「輝く太陽」の内容と異なっており、事実ではありません。同書並びにその他の資料によると、早稲田大学グリークラブの前身は、第二次世界大戦以前に複数の団体が集合離散を繰り返した上で成立したものであり、その中で最古の源流となるのが1903年に設立された「早稲田音楽会」です。1907年の校歌制定に際して、同会会員数名が校歌を披露したエピソードをもって「設立の一応の区切り」と解説されていたものが、のちに「我がクラブは校歌とともに発足した」という美談として一人歩きしてしまったものです。 2.早稲田大学校歌が学外・社会一般に広く知られるようになった理由を「彼らが国内演奏旅行で歌い広めたため」とありますが、「都の西北」が有名になった背景・原因は複数あったことが大学史に詳しい関係者の間では指摘されています。明治末期から大正期にかけて、「都の西北」は軍楽隊(ブラスバンド)のレパートリーとして全国に伝わりました(早稲田に隣接する戸山に拠点があった陸軍軍楽隊が大学の行事で奏楽を担当していたのが直接のきっかけ)。また、尾崎士郎「人生劇場」で知られる大正期の早稲田界隈を描写した記録によると、当時の学生たちは下宿など日常生活の中で「都の西北」を鼻歌のように口ずさんでおり、これにより自然と東京市中に広まったといいます。さらに大学野球の興隆とラジオ放送による全国中継も大きく影響したとされます。 一方、学生の音楽団体に言及するならば、大正から昭和初期にかけて早稲田音楽会から分かれて独自の活動を展開する交響楽団、マンドリン楽部、ハーモニカ・ソサイアティといった器楽系のサークルは、音楽会の時代から地方公演を積極的に行っており、各地で「都の西北」の演奏が大いに歓迎され、親しまれたことも知られています。 1932年に大学出版部から刊行された「半世紀の早稲田」(西村真次・著)で、「都の西北」が人口に膾炙した最大の功労者として、作詞者・相馬御風、作曲者・東儀鉄笛と並んで、大正4年に器楽伴奏による早大校歌の編曲を手がけ、卒業後も早稲田の音楽界の指揮者として全国で「都の西北」の演奏に携わった前坂重太郎の名が特に挙げられている点は、軽視できないかと思います。 「紺碧の空」「光る青雲」など早稲田の数多くのカレッジソングの演奏・普及に寄与した早稲田大学グリークラブは、その戦後の一貫した活動によって高く評価されるべきものであることは言うまでもありませんが、明治・大正期から昭和初期に「都の西北」が有名になったのは、当時の男声合唱団だけの手柄ではありません。器楽系の団体の名誉にも関わりますので、ひとこと触れておいて頂きたく、本文の手直しをお願い致します。--121.2.7.235 2008年2月26日 (火) 05:19 (UTC) スーフリについてやはり刑法の集団強姦罪などの創設となったぐらいだから年表には差し戻すぐらいしたほうが。--202.8.82.245 2008年1月20日 (日) 02:48 (UTC) 追記しました--Yoshikawa-wiki 2009年6月11日 (木) 20:57 (UTC) サークル記事の乱立について早稲田大学のサークル記事が乱立していましたので、Wikipedia:削除依頼/大学のサークルなどで削除依頼を出しました。 全て削除されると決まったわけではありませんが、削除議論への参加をお願いします。--時野 2008年1月26日 (土) 07:38 (UTC) 統合提案上の節でサークル記事の分割が提案されていますが、サークル記事の統合を提案します。分割議論を考慮に入れて、この統合より先に早稲田大学のサークルをまとめた記事に分割された場合はそちらへの統合提案に切り替えますが、現状では分割議論が停止しているので統合を優先させます。 本題ですが、早稲田大学宇宙航空研究会を当項目へ統合する提案です。早稲田大学宇宙航空研究会は過去二度に渡り削除審議が行われましたが、いずれにせよ単独記事で存在させるほどのサークルなのか疑問があります。広い意見をお願いします。--FOXi/Talk/Log 2008年2月18日 (月) 03:49 (UTC) 統合提案から一週間経過しましたが、議論も起こらず明確な反対意見もないため、手順に従い統合しました。--FOXi/Talk/Log 2008年2月24日 (日) 16:46 (UTC)
つくば風車裁判 についてこの記事の件は和解交渉も含めて結構長引いているようですけど、話題として「大学と社会との関わり」か、理工学部関連で触れるべき内容かと思いますが。--211.4.118.200 2008年4月3日 (木) 09:50 (UTC)
本庄〜早稲田100キロハイクの統合提案大学にとっては大きなイベントでしょうが、現状以上に単独記事として発展する見込みも無く、早稲田大学の記事内で記述すればよいのではないでしょうか?--Yyyyyy 2008年6月17日 (火) 03:56 (UTC)
早稲田大学漫画研究会 [項目の起案]早稲田大学漫画研究会を独立項目として記述することを提案します。 大学のサークル項目について「原則、独立項目を立てない」「議論により承認されれば可能性はあり」とアドバイスを受けましたので、起案いたします。
大学施設の部室も与えられている。(任意団体のサークルではない)
新 早稲田画報 ワセダがわかる本 早稲田大学漫画研究会篇 http://www.waseda.jp/jp/wbook/gahou.html 他にも同部名義で発行された数冊の書籍がある。
2007年には早稲田大学創立125周年記念事業にも招聘された。 大学発表資料 http://www.waseda.jp/waseda125/manken/manken.html 早稲田大学図書館でも研究が始まりOB作品の漫画文庫が設置されている。 http://www.wul.waseda.ac.jp/PUBS/nenpo/2002/04.html
早大にはいくつもの漫画研究会(任意団体)が過去または現在に存在した。 「早稲田大学少女マンガ研究会」「いじけっこ漫画集団」「マンガフリークス」「早稲田おとめちっくクラブ」などなど。現在も存在するものもあれば、解散したと思われるものもある。 人物履歴で「大学では漫画研究会に所属」だけでは、記述が曖昧になる。
1956年から1958年には早稲田大学、慶応大学、明治大学に漫画研究会が発足 (大学当局への届け・公認取得での一位については、現在、調査中)
ウィキペディアで解説されている人物のうち早稲田大学漫画研究会OBのリスト
(項目が立てられていないOBのクリエーターは、まだいます)--Gromitty 2008年10月18日 (土) 04:14 (UTC) Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準という合意事項が存在しています。これに則って独立記事とすべきかどうかを再度ご検討下さい。また、独立記事とする前にまずはこの記事の中で一サークルが記載される歴史的社会的意義を第三者にも判るような文章で書くことから始めることも検討して下さい。--秋の虹 2008年10月18日 (土) 05:04 (UTC) 早稲田大学漫画研究会 [項目の記述例]ひとつ前のノートトピックスで起案しましたが、記述の例を要請されましたので作成しました。御意見を頂ければと思います。 ------------------------------------ 以下は、あくまでも検討用の例文です。
早稲田大学漫画研究会(略称:早大漫研)は、早稲田大学が公認する学生サークル。 1956年、同学に学ぶしとうきねお、東海林さだお、園山俊二、原徹、福地泡介らによって創設され、2006年に創設五十周年を迎えた。 漫画についての研究活動として、作画や構成に関する実習研究、評論研究、機関誌「早稲田漫」の発行(年1回~年2回)、論評合宿、大学祭(早稲田祭)での作品展示や似顔絵実演、学内外の催事への参加などを行っている。 日本で最初に大学が公認した漫画研究会であり、同時期に設立された慶応大学、明治大学の漫研と共に学漫とも呼ばれ、その後、1960年代~70年代には立教大学、法政大学、東京大学の漫研も加えて六大学漫研リーグとしての合同展なども行った。 本邦の漫画発達史において1950年代初頭から始まった漫画同人の活動がある。 手塚治虫によって確立された現代漫画の手法に刺激された有志が漫画雑誌の読者欄で結び会を作り機関誌を刊行した。赤塚不二夫、石ノ森章太郎、水野英子らによる東日本漫画研究会と肉筆回覧誌墨汁一滴が知られ、後に同会のメンバーは寺田ヒロオ、藤子不二雄らと共にトキワ荘に入る。 これは日本の同人誌の嚆矢でもあるが、同会は社会人サークルであり学校とは関わりのない漫画研究会であった。 早大漫研などの大学漫研はその流れを受けて創設された。 まだ漫画が文化的に評価を受けていなかった時代、週刊漫画誌も創刊される以前、半世紀前の時代であり、早大漫研も当時多くのマスメディアの取材を受けている。 現在、漫研:漫画研究会という言葉が高校、大学などの学生サークルを指すようになったのは、早大漫研をはじめとする大学漫研の活動があった。 同人誌早稲田漫は2008年時点で68号を数え、日本最大の同人誌即売会コミックマーケットへは第3回C3板橋区民会館から参加している。 2007年には早稲田大学創立125周年記念事業のひとつとして「早大漫研OB展」が大学主宰によって行われた。 早大漫研の特徴として大学卒業後の進路がある。漫画家や編集者など出版での漫画活動、アニメやテレビ、映画など映像関係の活動で活躍するOBが多い。創設メンバーは全員がプロ漫画家の道へ進み、その後も多くの後輩が続いている。 早大漫研が特別な教育実習プログラムを有する訳ではないが、志を同じくするものが集まった結果として考えられる。 以下はウィキペディアで紹介されている早大漫研OBと活動の例である。 *入学年 氏名・ペンネーム 職業 代表作
漫画 早稲田大学 外部リンク 早稲田大学漫画研究会公式HP 早稲田大学創立125周年記念早大漫研OB展
博物館の項目に関して會津八一博物館の項目において、 >博物館が入居する2号館はは1925年(大正14年)に図書館として建造された学内最古の建造物で、 とありますが、学内最古の建造物は大隈講堂の前にあるピンク色の建物であり、會津八一博物館が最古の建造物というのは間違いです。 最古の建造物となるピンク色の小屋は、元々は大隈邸の御者が寝泊まりしていた建物で、大学創立当時からほぼ現在の場所にあると講義を受けました。 建設当時は大隈邸の施設で大学とは直接は関係ありませんが、現在は大学内の敷地にあり数年前までは総合案内所として活用されていたことから、大学の施設と考えて問題ないと思います。 そのため、上記の「学内最古」という表現は百科事典として適当ではないと考えます。 どなたか編集できる方、修正をお願いします。--以上の署名のないコメントは、121.95.41.213(会話/Whois)さんが 2009年11月4日 (水) 12:01 (UTC) に投稿したものです。 内容過剰について内容の削減が必要とは思いませんが、すでにこの項は、wikipediaの中でも特にページが重く、表示されるまでに時間が掛かるため、これ以上、些細な事項が書き込まれると、さらにページが重くなることが懸念されます。 また、「記事は、その主題に関する一般的な知識の概要である(Wikipedia:特筆性#記事内容の特筆性)」、「詳細なものを完璧に説明するものではありませんWikipedia:特筆性#記事内容の特筆性」とあることから、重要でない事項を細かく解説するなど、雑多な内容、特筆性の乏しい内容については、これ以上の過剰な加筆は避けた方がよいと思われますので「内容過剰」タグを付しておきました。--以上の署名のないコメントは、Engineeringmanner(会話・投稿記録)さんが 2010年6月12日 (土) 08:27 (UTC) に投稿したものです。
大学群[1]を見つけたので削除しました--白山台(会話) 2012年3月26日 (月) 09:05 (UTC)
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