ノート:カール・マルクス/過去ログ1
マルクスの宗教観を述べるべき項目で、記事の書き手が宗教を一方的に断罪し、自分の宗教観と一般論を混同して記述しています。中立の立場での記述をお願いします。 とくに以下の記述: 「その後の世界史が証明するように、無数の宗教絡みの殺戮・不幸を引き起こす元凶であった。」 「明らかに宗教が人類の不幸の根源となってしまっている。マルクスによる宗教観は、このような史実から当然に導き出されるものである。」 「なお、北部インドを起源とする仏教やヒンドゥー教では今日のスリランカにおける内戦を唯一の例外として、宗教による悲劇は無い。今日の東南アジアにおいても、小乗仏教が広く信仰されているタイ等で、大乗仏教の華人達が平和的に共存関係にある。」 これらの記述はマルクス本人が書いたものの引用でもなく、マルクス本人と直接関係しない書き手の宗教観すらを含む書き手の個人的な主張であって、必要もなければ客観的でもなく、宗教者からの反論と両論を併記するか、削除を求めます。 Frederic2000
やや瑣末と思われる事項(本文からノートに移動)
マルクスは、ナポレオン支配を脱して拡大したプロイセン王国治下に生まれた。 マルクスの父ハインリッヒ・マルクス(旧名ヒルシェル・ハレヴィ・マルクス)はラビの家系に生まれた。母はオランダ生れのユダヤ人のアンリエットで、ハインリッヒよりもユダヤ性が強く、日常生活でイディッシュ語を話していた。姉はゾフィー。 マルクスの婚約者イエニーの召使いは、後に終生マルクス家に仕えたヘレーネ・デムート[愛称:レンシェント]であった。 マルクスの父は、1838年、腎臓病のため死去した。 マルクスは、友人とともに、パリで『独仏年誌』(Franco-German Annals)を出版し、500ターレルの収入を得た。 マルクスをパリから追放させたのは、外交使節としてたびたびパリを訪問していたアレキサンダー・フォン・フンボルトであった。 1847年、長男エドガーが誕生した。(8歳で死亡) 次男ヘンリー、長女フランチスカ誕生するも1850年末に死亡する。また娘エリノア、ラウラも誕生する。 --Miki08 2010年2月10日 (水) 08:07 (UTC) 著作一覧を執筆年順にしてほしい見出しの通りです
ネガティブな材料の寄せ集め「逸話」節の記述についてですが、私的な手紙の中での悪口や父親の叱責などネガティブな材料を寄せ集めて百科事典に公表し、人格的な信用を失わせようとするのは、Wikipedia:中立的な観点に反すると思います。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかにも、「他人の評判を傷つけるだけのために記事を書いてはいけません」とあります。掲載に公益性もないと思います。したがって、「逸話」節のネガティブな材料の羅列は削除させていただきます。--Miki08 2011年7月29日 (金) 02:51 (UTC) 京都市西京区さんの差し戻しについて編集の一律差し戻しはお止めいただきたく存じます。私の編集で消えてしまった出典付きのBBCの件は申し訳ありませんでした。父親の逸話というのが具体的にどれか分からないので教えて頂ければ幸いです。語録につきましてはウィキクォートの方が適切かと思われましたので削除いたしました。--Omaemona1982(会話) 2013年7月14日 (日) 04:59 (UTC) 「京都市西京区」です。上のほうで他の方も指摘しているように、量的には拡大しましたが、中身は伝記の記述の恣意的な選択に基づく寄せ集めといった印象をうけます。 参考文献を見て、もう少しバランスのとれた記述の選択にしたいと思いますがいかがでしょうか。 また、「評価」の項目は、批判者一人の意見の引用で埋められていたのでその部分は削除しました。マルクスの評価の中には、共産主義者から非共産主義者まで、好評価もあるのですが、ミーケルやバーリンといった批判者だけのコメントをもってくるのは客観性に欠けると思います。—以上のコメントは、京都市西京区(会話・投稿記録)さんが[2013年7月14日 (日) 05:45 (UTC)]に投稿したものです(211.19.91.199による付記)。 肯定的な評価が少ないということでご不満と推察いたします。私もWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/カール・マルクス 20130711で指摘を受け、「評価」を中心にマルクスに否定的な評価が多くなったと思っております。肯定的な評価を探して是正を行っていきたいと思いますが、もしよろしければ是非「京都市西京区」さんも加筆に参加していただき、肯定的な評価の加筆をお願いできたらと思います。批判者の意見を消すために差し戻すより、肯定者の意見を増やしていく加筆の方がよほど建設的に思えますが、いかがでしょうか。--Omaemona1982(会話) 2013年7月14日 (日) 05:54 (UTC) 合意形成について凍結されたのでこちらに書きます。私の意見は次のようなものです。 記述の選択が恣意的である。たとえばマルクスのギムナジウム時代の作文について、校長の意見とシュンペーターの意見が引用されていますが、この作文には好評価もありますよね。両論併記してはどうかと思うのですが。また、「評価」の項目は批判者による意見で埋め尽くされていますが、これも両論併記できますし、そもそも一人の人物の引用で評価を埋めるというのはつたない記述だと思います。この点は上の方で多数の方に指摘されていますが、Omaemonaさんはどのように思っていらっしゃるのでしょうか? また、BBCの出典を削除したこと、マルクスの父のフリーメーソン履歴の出典を削除したことなどから、Omaemonaさんの編集方針は中立的な観点に立っていないと思いますが、いかがでしょうか? --京都市西京区(会話) 2013年7月14日 (日) 05:58 (UTC)
入れ違いになったので補足。私が時間のあるときに同時代人や歴史家の肯定的評価をもってきて、記述全体のバランスをとろうと思いますが、「評価」の項目にあるミーケルの引用については、概要に縮小するか、削除したほうがいいのではないかと思います。マルクス経済学の批判は小泉信三とかもそうですが一般的にミーケルのような批判が複数ありますので、それらの批判の共通項だけまとめるというかたちのほうがすっきりすると思います。--京都市西京区(会話) 2013年7月14日 (日) 06:06 (UTC)
なるほど、では大規模編集の前にノートを利用しようと思います。ただ、Omaemonaさんの編集でも削除された項目はたくさんありますよ。それも、ノートで批判されているにもかかわらず合意形成して編集しようとしていませんよね。--京都市西京区(会話) 2013年7月14日 (日) 06:17 (UTC)
>さかおりさん とりあえず凍結解除になったら、合意のできたミーケルの意見についてはマルクス経済学の方に移行します。伝記的記述の瑣末、もしくは非中立的な意見については、私がこれはどうなのと思うものをここに記します。一定時間経って異論がなければ修正します。異論があれば合意を目指します。/>Omaemonaさん カーの伝記などは、注意深く読めば両論併記できそうな記述があると思うんですが。またここで提起します。なお、ミーケルの記述をマルクス経済学の方に移動するときに概要記述というかたちにしようと思うのですが、Omaemonaさんはそれでいいですか? 引用文ママで移動したいですか?--京都市西京区(会話) 2013年7月14日 (日) 06:34 (UTC)
Omaemonaさんも、当初の無言の差し戻しから対話路線にうつくってくださり、話がしやすくなりました。ありがとうございます。--京都市西京区(会話) 2013年7月14日 (日) 07:15 (UTC)
7月25日までは審査があるそうですから、それまではこのページを改訂することはしません。 しかしそれまでの間、できる限り改訂について合意を形成することを期待して意見を記します。 とりあえず、Omaemonaさんが参照した伝記に当たろうと思い、EHカーとメーリングとウィーンのマルクス伝を借りてきました。これらのテキストを一読したかぎりでも、現在のページの記述がかなり恣意的な記述になっていると思います。 たとえば「植民地支配の項目について」ですが、マルクスが植民地支配を社会革命を推進するのであれば悪い面ばかりではないと考えていた、という記述だけが掲載されています。確かにマルクスはゲーテの言葉を引いて、「それが私たちの快楽をますのであれば、どうして悪いことがあろう。ティムールの支配も無数の命を滅ぼしたのではなかったか?」と書いたことがあります。しかしマルクスによる当該文献を読めば分かるように、その基調は、植民地におけるイギリスの暴力や圧政に対する批判で貫かれています。マルクスが、イギリスのアイルランド支配を指して「他の民族を抑圧する民族はけっして自由ではありえない」と言ったのは有名ですし、イギリスのインド支配に対しても、資本論で「デカン高原をインド人職人の白骨で真っ白で染めた」というイギリス総督の報告を引用しています。現在の記事にはこうした本論というべきマルクスの立場が記述されておらず、枝の部分だけ記述することでマルクスの植民地批判の立場がまったく読者に理解されないものになっています。ここで引用したマルクスの発言はまた出典つきでノートに記載しますが、「植民地支配について」の項目を修正することをOmaemonaさんはどう思うかお聞かせください。 また、上の方で取り上げたマルクスの卒業論文ですが、これについても現在の記述では非常に一面的で、恣意的な記述がなされています。卒業論文についてのヴィッテンバッハ校長の評価(「異常な隠喩表現を誇張して無理に使用する」)とシュンペーターの評価(「マルクスのこの種の文体はいつも何かを隠す時につかわれた」)だけが掲載されていますが、たとえばあなたが参考にしたEHカーは、「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所についてこう書いています。「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」(カー1961:16-17頁)。Omaemonaさんは「人物」の項目でマルクスを「プライドの高さ、不寛容さ、独善性、憎悪と否定」として描いていますので、「規律、自己否定、公共奉仕」という彼の人物像は受け入れられないかもしれませんが、カーのような研究者の記述を排除してマルクスの人物像を一面的に描くのは恣意的という批判を免れないでしょう。 「概要」という項目は、いまは伝記的記述を短くしただけのものになっていますが、概要では伝記的記述だけでなく、その当人の世界史上の位置や思想上のなど位置も必要でしょう。現在ではその人物がどう見られているか、賛否両論の立場から記述することも必要でしょう。何歳のときに改宗したとか、嫁さんが何歳年上だったかとかはどうでもいいことです(それは「生涯」の項目で書けばいいのです)。「概要」は全面的に書き換えることを提案します。 「人物」の項目は、拙い記述という他ありません。「プライドの高さ、不寛容さ、独善性、憎悪と否定」という項目があるなら、「献身、自己犠牲、公共奉仕、家族愛、国際的連帯」という項目がないのはヘンでしょう。別にこういう項目をつくるべきというのではなく、「人物」という項目で中立的な記述をするふりさえしないというのは、問題だと思うのです。その他の項目も同様の問題をはらんでおり、「人物」の項目も全体的に書き換えることを提案します。 とりあえずこんな調子で修正方針の提案をしていきたいと思いますが、どうでしょうか。もし修正方針がOmaemonaさんにも受け入れられるものであれば、出典付で原案を書いてここに記します。合意できれば、ページの記述に反映するというかたちで進めたいと考えています。--京都市西京区(会話) 2013年7月15日 (月) 08:36 (UTC)
では加筆修正はこちらでおいおいやっておきます。とりあえず卒業論文のくだり、植民地認識、労働者観、戦争観は修正します。概要と評価も修正します。それから記事全体に見られる「っぷり」「トンデモ」「憎悪した」「嫌った」という類の主観的記述も修正します。それから削除の件はどうですか? とりあえず「人物」の項目の「プライドの高さ、不寛容さ、独善性、憎悪と否定」の項目は削除する方向で考えています。もし削除しないなら、こちらで「献身、自己犠牲、公共奉仕、家族愛、国際連帯」の項目をつくりますが、この二つが単に混在しているとマルクスが二重人格か単なる情緒不安定なやつみたいな印象をうけますし、記述としても拙いかと思います。「プライドが高く喧嘩っぱやかったが、その言動は自分の信じる公共奉仕の精神で一貫していた。彼は家庭ではよき父でありよき祖父であり、公共の場では礼儀正しく、労働者の国際団結を唱えた」のように、「性格」という項目をつくって統一するのもいいかもしれません。--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 03:00 (UTC) なお、参考文献で石浜知行 『マルクス伝』 改造社〈偉人傳全集第6巻〉、1931年(昭和6年)と太田恭二 『マルクスとエンゲルスその生涯と学説』 紅玉堂書店、1930年(昭和5年)、小牧治 『マルクス』 清水書院〈人と思想20〉、1966年(昭和41年)。ISBN 978-4389410209の三点があげられていますが、日本人で一次資料に当たっているとも思えないこれらの伝記が、バーリンやカーやウィーンの伝記の記述よりも優れているわけがないので、伝記の記述が食い違ったときは石浜太田小牧の方を典拠にした記述は削除します。--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 06:09 (UTC) 括弧内の文章が、本当にマルクスの文章か?と思うような記述があります。小牧が勝手に要約した文章ではないかと思えますので、マルクスの原典に当たって確認してみます。とくにマルクスが自分の文章で「(自己実現)」とか書くわけがないので、明らかにおかしいと思った箇所はコメントアウトしておきます。また、シュワルツシルトのマルクス伝はマルクスの人間的側面にしぼって記述されたもので、マルクスの当時の政治的文脈や思想的文脈を切り捨てています。こうした見地からはマルクスがバウアーやフォイエルバッハを批判したのは彼らを「嫌った」からだということになり、理論的な発展から批判しなければならなくなったという見地が見落とされてしまいます。広範な読者の注意をひきつけなければならない市販のテキストとは異なり、Wikipediaの伝記の記述はマルクスの公的立場を軸に簡潔に書かれるべきだと思います。したがってシュワルツシルトに拠った文章は、「生涯」とは独立した別の、たとえば「人物」などの章にうつすことを提案します。 小牧の引用文について、シュワルツシルトによった文章を別の章に移動することについて、どう思いますか?--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 07:02 (UTC) あと同じ段落で同じ中身の出典を複数つけたりもされてます。これは文末に単一の出典で統一できると思います。この修正はいまはやりませんが、異論がなければ何日かたったあと、行います。--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 07:26 (UTC) とりあえず今日は「生涯」の項目を一部修正しました。カーの文献をいくつか出典として書き加えましたが、ページ数が抜けているので近いうちに加えます。修正が気に入らない場合は言ってください。「生涯」のうち、ナポレオン以降は修正していませんが、これはまた明日以降やります。
まず「人物」の項目。たとえば現在の「不寛容、独裁性」の項目では、一次資料はシュルツ、ルーゲ、バクーニンのコメントしか用いていませんが(カーとメーリングはマルクスを直に知りませんよね)、彼らは皆、マルクスの批判者ですよね? しかしエンゲルス、リープクネヒト、ハイネ、ベーベル、イェニーは違う評価をしていますよね。あなたも読んだカーやウィーンの伝記では、マルクスは「不寛容で独裁的な性格」から反対者と討論したり除名したりしたのではなく、「自分の信じる大義に必要な限りでそうしたのであって、彼は楽しんでそうしたのではなかった」という主旨のことを書いています。マルクスはよく批判をしましたが、ウィーンは「誤解されてはならないが、マルクスは言い返せない相手に峻烈な批判をしたことは一度もない」という主旨のことを書いています。「憎悪と否定」の項目に至っては、書かれていることはゾンバルトと小泉という人のマルクス評であって、マルクスの性格についての記述になっていません。マルクスが他者への同情よりも憎悪を多く抱いたと書かれていますが、なぜ分かるのですか? 「プライドの高さ」ではマルクスは自分の欠点を他人に知られるのを恐れたと書いていますが、そんな人間が自分のペニスにできものができたとか、自分が女中を孕ませたとかいった類の話を友人に手紙で知らせますか? シュワルツシルトの件では私の言いたいことが理解されていないようですが、シュワルツシルトはマルクスの手紙や行動を、彼の政治的文脈から切り離して記述していますよね。たとえば彼にかかればバウアーを批判したのはマルクスとバウアーの仲が悪くなったからだし、プルードンを批判したのはプルードンがマルクスの要請を断ったからだということになります。プルードンの批判のくだりは私もシュワルツシルトの記述に妥当性があると思うのですが、ルーゲやバウアーやフォイエルバッハの批判まで、個人的怨恨から行ったものと断定するのは、間違っていると思います。ルーゲとバウアーとフォイエルバッハをマルクスが何故批判しなければならなかったかは、カーの伝記に書いてあるのでよく読んでください。 あと小牧を出典としたくだりで、Omaemonaさんはマルクスの言葉として「(自己実現)」とか書いてありますが、こういう括弧付の文章はマルクスの言葉ママなんですか? それとも小牧かあなたの要約ですか? もし後者なら、括弧つきにするべきではないし、私も原典にあたって要約が適切かどうかチェックしようと思うのですが。 最後にノートの使い方ですが、編集方針は数行でもいいのでノートに書いてほしいです。というのは、Omaemonaさんは前任者の記述をばっさり削っているのに、自分の記述が削られるときは包摂主義を持ち出すなどして、その編集方針が第三者に伝わりにくいものになっているからです。ですからその場合はノートか、一行で済むなら「編集内容の要約」に加筆修正の理由を書くべきです。編集についても差し戻しについても、それを行う側がノートか編集内容の要約にその理由を書くべきですね。--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 13:59 (UTC) それから、今後の編集方針の参考として聞きたいのですが、上の方でOmaemonaさんは「恣意的・中立性がないというご批判は最も」とおっしゃっておられますが、どのような方針でこの「マルクス」のページを編集したのですか?--京都市西京区(会話) 2013年7月16日 (火) 14:02 (UTC)
了解しました。
ちょっと今日は時間がないのでメモだけ。「各国観」では、「マルクスの全く思考外だったロシアと中国」とありますが、ロシアのザスーリッチか誰だかの手紙へのレスポンスでマルクスは、「ミール共同体をテコにすればロシアは社会主義を建設する可能性がある」という趣旨のことを述べていますし(これは有名な逸話で、ググればすぐにでてきます)、中国については、「ヨーロッパ革命から東アジアに逃れたブルジョワジーが、この最古の帝国の門に『自由、平等、博愛』という文字を見ないとはだれが知ろう」と述べています(典拠は大月書店の『マルクス・エンゲルス全集』7巻229頁)。また、そもそもロシアや中国型の社会主義がマルクスの想定する社会主義だったかどうかも議論の余地があるところです。--京都市西京区(会話) 2013年7月18日 (木) 04:03 (UTC) 引き続きメモ。ロシアについてはこんな主旨の記述も。"もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう。"全集12巻648頁。--京都市西京区(会話) 2013年7月18日 (木) 11:37 (UTC) まずメモ。マルクスの「浪費」癖について色々な記述がありますが、ウィーンの指摘によれば、マルクスは贅沢や虚飾とは無縁であり(ラッサールとの同伴の件でも分かるし、マルクスが浪費していたのは煙草とワインくらい)、マルクス家の出費はむしろ妻や娘のための方が多かったとあります。娘の教育や体裁のために出費するのは、たしかに倹約家とは言えないでしょうが、浪費とは違うのではないかと思います。まあペット飼ったりしてましたが、あれもウィーンを信じれば娘のためですよね。 それから労働者観のところでシュワルツシルトの記述をコメントアウトした理由。シュワルツシルトは「マルエンは公的には労働者を賛美していたが」としていますが、マルクスは公的にもプロレタリアに結構厳しい評価をしています。たとえば『ブリュメール18日』では、「(プロレタリアは)たえず自分自身を批判し、自分で進みながら絶え間なく中断し、成就されたと見えるものに立ち戻って改めてやり直し、最初の試みの中途半端さ、弱さ、みすぼらしさを情け容赦なく徹底的に嘲笑する」「自分自身の目的の漠然とした途方もなさに改めてしり込みする」(植村邦彦訳、平凡社、22頁)といった具合にプロレタリアの政治的無力さをかなり辛辣に書いています。これは単にマルクスがプロレタリアを神格化していたとか軽蔑していたとかいう次元ではなく、冷静に見ていたということではないかなと思います。エンゲルスについて言えば(そもそもこれはマルクスの頁でエンゲルスの頁ではないのですがそれはさておき)、シュワルツシルトがあげた手紙の文脈がどういうものか分からないし、「私はミドルクラスの会合や宴会、ポートワインやシャンパンを断念して、私の自由な時間のほとんどを労働者との交際についやした。私はこのようにふるまったことを喜びとしかつ誇りとするものである」(『全集』2巻225頁)と書いているように、本当に労働者を軽蔑していたならこんなリサーチはしないでしょう。マルクスやエンゲルスが、国際労働者教会の役員にならないかと誘われたとき、労働者がなるべきだと辞退しているのも、本当に心から労働者が駄馬でのらくらだと思っているならおかしい話です。 とはいえシュワルツシルトの評価の真偽ではなく、「シュワルツシルトがこう言っているのは本当なんだから」ということで記述を掲載したい人もいるかもしれません。その場合は、きちんとシュワルツシルトの記述の疑問点も載せるべきだと思います。--京都市西京区(会話) 2013年7月18日 (木) 13:50 (UTC) 「ユダヤ人観」の項目もやや大きく修正したので報告します。まず「ユダヤの血」というのは、(参考文献の江上が何と言ったかは知りませんが、)ユダヤ人問題というのは血統問題ではなく宗教問題であるという観点から修正。ラッサールへの人身攻撃は有名ですが、マルクスのこういう類の批判は公私を問わず批判者に対しては誰にでもやられています。たとえば『フランスの内乱』におけるティエールの描写を見れば、ラッサールへの人身攻撃は、ユダヤ差別というより、単にマルクスの口が悪いだけと言えます。しかしまあ有名なくだりですので、どうしても載せたいということであれば、注釈で載せることをお勧めします。本文に載せるには冗長ですし、先に述べたようにマルクスの批判のレパートリーからすればそう特殊なものではありません。マルクスのページに相応しいか疑問でしたので、ディズレーリとの対比も削除しました。必要だということなら過去履歴からコピペして復活させてください。これらの修正について問題があれば指摘してください。--京都市西京区(会話) 2013年7月18日 (木) 14:24 (UTC) 「ユダヤ人観」をさらに修正。ハイネのくだりはマルクスに関係ないのでカット。ウィーンの記述ではマルクスが何を主張したのかが要領得ないので、テキストの主張を正確に反映するように修正しました。バクーニンのくだりも必要性に疑問があったのでカット。 「憎悪」云々の項目に関しては、よく見たら小泉の文献しか典拠になかったのでカット。 「その他」でマルクスは政治指導者向きではなかったとあるが、同時代人物でもないバーリンの感想以外の根拠が書いてないのでカット。マルクスがしゃべるのがヘタだったら、なぜ彼が共産主義者同盟や国際労働者協会でイニシアチヴをとれたのか説明がつかない。とりあえず今日は眠いのでこれまで。--京都市西京区(会話) 2013年7月18日 (木) 14:38 (UTC) だいぶ進めてもらったみたいですね。お疲れ様です。「植民地支配について」がいい感じになりましたね。「ユダヤ人について」はウィーンの記述(というか『我が闘争』の先駆け視する主張の存在とその反論)は特筆性があるように思いますのでテキストの後ろに入れてみましたがどうでしょう。ラッサールのは注釈にしときました。--Omaemona1982(会話) 2013年7月18日 (木) 19:07 (UTC) メモ。手紙をちゃんと読んだら、マルクスは一旦批判した者に対しても正当な評価をくだそうとしている跡が見られますね。たとえばプルードンに対しては1865年の手紙で沢山の悪口と共に沢山のほめ言葉が並んでいます。彼の『財産とは何か』は絶賛されているし、「たくましい筋肉組織にも似た文体」が褒められ、六月革命のあとにおける国民議会での行動が賞賛され、「大洪水前の巨人」とされています。このテキストでは、マルクスはプルードン批判を開始した理由はプルードンが「私はあなたの批判の鞭を期待しています」と書き送ったことに応えたものとしていますね。これはウィーンの伝にも見られたとおりです。参考『マルクスコレクション7』筑摩書房。ルーゲとか雑魚はともかく、フォイエルバッハあたりになるとマルクスは批判してても手紙ではその偉大さを称えたりしてます。とりあえずまだまとまってないのでメモにとどめますが。--京都市西京区(会話) 2013年7月20日 (土) 00:42 (UTC)
批判した相手の再評価は、マルクスの手紙を直に読まないと分からないみたいですね。私は筑摩書房の『マルクスコレクション』と大月書店の『マルクスエンゲルス全集』を参考にすることにしました。ウィーン、カー、メーリングの伝記をそれぞれ読みましたが、伝記は結局、文学ですし、作者は自分の興味あるところしか抜粋しないようです。 マルクスが書いたテキストや手紙をじかに読むと、悪口の文脈(文脈を見れば大した意味ではなかったりする)や再評価などもあって参考になります。まあプルードンの場合は(ウィーンによれば)マルクスのことを「社会主義のサナダムシ」と書いてたようだし、マルクスにこてんぱんにされてるマッツィーニはマルクスにもプルードンにも悪口言ってたみたいなので、皆お互い様みたいな気がしますけどね。この点ではウィーンの「マルクスは言い返す媒体を持っていない相手に辛辣な批判を加えたことはない」という評価が正しいのではないかと思います。なお、記事でマルクスのテキストを要約する際に、マルクスがどんな悪口を言っていたかをトリビアルに書いている箇所がありますが、マルクスが「バカ」といったか「アホ」といったかはWiki的にはどうでもいいことで(誰の何を批判したかが分かればいいので)、テキストの内容を明確に伝えるようにおいおい修正していこうと思います。この際なのでマルクスの主要著作をもう一回読み直してみます。ラッサールへの悪口は、マルクスの悪口はどんなものだったかという見本として、とっておきましょう。--京都市西京区(会話) 2013年7月20日 (土) 13:08 (UTC) 「各国観」の編集についてのメモ。マルクスは1870年にフロレンスキーの著作(『ロシアにおける労働者階級の状態』)を評価し、「彼の著作をよく読んでみれば、きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない。」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.340-342)。--京都市西京区(会話) 2013年8月21日 (水) 11:08 (UTC) |
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