ネラック
ネラック (Nérac、ガスコーニュ語:Nerac)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、ロット=エ=ガロンヌ県のコミューン。 地理コミューン内をベーズ川が横切り、コミューンの西側をジェリーズ川が境界となって流れる。およそ10マイル北で、2つの河川はガロンヌ川と合流する。 歴史ネラックの語源は定かでない。一つの説として、ネラックとはガロ=ローマ時代の人名Neriusに接尾辞の-acumが付けられ派生したのではないかというものがある。 1832年、ガレンヌ地区でガロ=ローマ時代のヴィッラ遺跡が発掘された。 ネラックがまちとして繁栄の頂点に達したのは、アルブレ家が領主となった16世紀である。ランド地方のラブリから11世紀に移ってきたアルブレ家は、1484年にジャン3世(フアン3世)がナバラ女王カタリナ1世と結婚してナバラ王となった。2人の長男エンリケ2世は1527年にマルグリット・ダングレームと結婚した。2人の間に生まれたジャンヌ・ダルブレはブルボン家のアントワーヌの妻となり、のちにユグノーに改宗している。 1530年代から、領主ジャンヌ・ダルブレの影響を受けたネラック住民は新教徒となり、第一次ユグノー戦争に身を投じた[1]。 シャルル9世は1564年から1566年まで宮廷をつれてフランス国内を行幸した際、弟アンジュー公アンリ(アンリ3世)、アンリ・ド・ナヴァール(アンリ4世)、ブルボン枢機卿とともにネラックを訪れている[2]。 1572年、ユグノーのジャンヌ・ダルブレ、そしてカトリックのカトリーヌ・ド・メディシスは、アンリ・ド・ナヴァールとマルグリット・ド・ヴァロワを結婚させようと計画した。結婚式直前にジャンヌは急死したため、血塗られた結婚式に出席することはなかった。 ルイ13世時代にネラックは反乱を起こし、1621年にマイエンヌ公アンリに鎮圧され、その要塞は取り壊された。 18世紀のネラックは、サン・ドマング向けコムギ輸出で繁栄の時代を迎えた。 1920年代から、大きなイタリア人コミュニティーがネラックに移った。 人口統計
source=INSEE[3] 出身者姉妹都市脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia