ネストール・オマール・ピッコリ
ネストール・オマール・ピッコリ(Néstor Omar Píccoli, 1965年1月20日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 経歴現役時代1982年にアルゼンチンのCAリーベル・プレートでプロデビュー、1987年に日本サッカーリーグの全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団、一旦アルゼンチンに戻ったが1991年に全日空に復帰し、1992年には中央防犯サッカー部に入団した。1994年にはJFLオールスターサッカーに出場、1ゴールを決めた[1]。クラブが福岡に移転した1995年にはJリーグ昇格に貢献、この年限りで現役引退した。 指導者転身後日本時代1996年以降もアビスパ福岡とチーム名が変わったクラブに残り育成担当に就任、1998年からU-18監督となった。さらに1999年はトップチームのアシスタントコーチも兼務、2000年から監督に就任した。 就任後はチームに闘争心を植え付け、激しいサッカーを目指し2000年のセカンドステージではシーズン終盤まで優勝争いに絡むなど周囲の評価を覆す躍進を見せた。しかし翌2001年は成績は伸び悩み、所属選手の不祥事による動揺もあってJ2降格となり解任された。 2000年4月12日のナビスコカップ・湘南ベルマーレ戦ではスタメン、ベンチ入りメンバーの大半を入れ替え、実質上サテライトチームの編成で試合に臨み「最強のメンバーをもって試合に臨む」とのリーグ規約に抵触するのではと物議を醸した(後述)。 2003年末には日本フットボールリーグ昇格を目指す静岡FCに監督として招かれ、全国地域リーグ決勝大会で指揮を執ったが、昇格はならず、大会後に辞任した。 アルゼンチン帰国後2004年には、日本サッカー協会のS級コーチライセンス獲得のためにリーベル・プレートでコーチ研修を行った都並敏史を現地で迎え、通訳兼コーディネーターとして支援したとされる。都並は1996年から1年余り福岡に在籍し、ピッコリとは面識があった。 現在はボカ・ジュニアーズでアシスタント・コーチを務めている。 所属クラブ
個人成績日本国内成績
ピッコリ事件2000年4月10日、アビスパの練習場だった雁ノ巣での練習後ピッコリは「12日のナビスコカップ開幕戦湘南ベルマーレは控え組で臨む」と発言。当時の福岡の戦力を考えれば妥当な戦略であり、ピッコリ自身は「技術のある選手がベストメンバーではない。90分質の高いプレーをするのが選手がベストだ。選手を使い続けて疲れさせていいのか?」と主張した。 しかしJリーグ側は発言が新聞に掲載された事で事態を問題視。Jリーグ側はカップ戦の権威が落ちる事に対するスポンサーへの配慮もあってアビスパ側を問い質ししつづけた。この時はいわゆるJリーグバブルが終わり日本経済も冷え込みを続けた時期でスポンサー離れ等危機感が大きくJリーグ側が問題視したと考えられる。 これがきっかけで、Jリーグ規約第42条の「最強のチームによる試合参加(ベストメンバー)を」定めた項目に補足基準 「次の試合(J1・J2・ナビスコカップ)における先発メンバー11人は、当該試合直前のリーグ試合5試合のうち、1試合以上先発メンバーとして出場した選手を6人以上含まなければならない(但し、負傷・出場停止等の例外規定もあり)」 という規則改正にまで発展した。 福岡サポーターの一部は当時を振返り「サポーターはピッコリ支持で一つに固まっていた。文句を言う人間はだれも居ない」と語っている。ちなみにこの時の相手湘南とは4月12日に平塚競技場で3-2で福岡が勝利。4月19日はホーム博多の森で0-0の引き分け2回戦に進出した。 なお、同年の同大会でジェフユナイテッド市原も福岡と同じようなケースでその前の公式戦のメンバーから先発9人を交換し試合に臨んだが(4月12日開催)、市原側は先発交換に関して態度を軟化させたこともありJリーグからお咎めは無かった(参考文献『エル・ゴラッソ』2007年3月21日発行分。なお、同紙ではこの事件に因み、ナビスコカップにおける先発メンバーの変更率を「ピッコリ度」と呼んで指標としている)。 ピッコリが「控え組で臨む」と言った背景には、問題となった4月の月間試合数(8試合)が過密日程だったことも考慮する点があった。 問題となったときの試合日程
問題となったときの試合メンバー
監督成績
脚注
参考文献
外部リンク
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