スハウテン諸島の一部、ヌンホル島
ヌンホル島 (ヌンホルとう、英語 : Numfor 、Numfoor 、Noemfoor 、Noemfoer など)は、インドネシア 北東部、西ニューギニア のパプア州 スハウテン諸島 (ビアク諸島とも)に属する島のひとつ。
第二次世界大戦 中、日本 軍と連合 軍の間で起きた戦闘の舞台となり、両軍にとって主要な航空基地 でもあった。
地理
ニューギニア島 の広大なチェンデラワシ湾 (かつてはヘールフィンク湾と呼ばれた)北側に位置する。概ね楕円形 で面積は335平方キロメートル。南東の沿岸部のうち何箇所かを除き、ほとんどをサンゴ礁 に囲まれている。南東の沿岸部には低く急な崖も見られる。内陸部のほとんどは森林 からなる。[ 1]
パプア州ビアク・ヌンホル県 の管轄である。2010年の統計では、5地区に9,336人の人口を抱える。[ 2]
歴史
ヨーロッパ人による島の目撃例としては、1528年6月24日、スペイン人探検家アルヴァロ・デ・サーヴェドラ が、ティドレ からヌエバ・エスパーニャ へ帰ろうとする途中で目にしたのが初である。もう一例、1545年にスペインの探検家イニゴ・オルティス・デ・レテス が、ガレオン船 サンフアン号から目撃している。これもヌエバ・エスパーニャへの帰還を試みている最中であった。[ 3]
第二次世界大戦
第二次世界大戦 中の1943年12月、ヌンホル島は日本 に占領された。[ 4] 当時の先住民人口は約5,000人で、ほとんどが沿岸部の村々で自給自足の生活を営んでいた。[ 5]
島にはその他にも、日本軍に連れてこられた約1,100人の労働者たちが駐留していた。台湾人 の占領地労働者部隊600人と、インドネシア の民間から強制徴用 された労働者たち500人だった。彼らは日本軍によってヌンホルへ連行されてきた4,000人以上もの労働者の生き残りであった。[ 6]
日本軍は島内の3箇所に飛行場を建設し、重要な航空基地として整備した。[ 4] [ 7]
コルナソレン飛行場/ヤブルロ飛行場(島の北端に面する)
カミリ飛行場(島の北西端)
ナムベル飛行場(島の西部沿岸)
アメリカ 軍とオーストラリア 軍の航空機による島への爆撃は、1944年4月には始まっていた。[ 8]
連合軍は1944年7月2日から[ 8] [ 9] 島に上陸を開始した。[ 4] 島は「ほぼ隙間のない環状」のサンゴ礁に囲まれていたが、岸への到達の際、部隊には「ほぼ死傷はなかった」と新聞では報じられた。部隊ははじめ、島の北西端のカミリ飛行場付近に上陸した。日本軍はカミリ周辺の広範囲に守備の用意をしていたが、[ 10] 飛行場では戦闘はほとんど起きなかった。[ 11] アメリカ海軍の公式記録によれば「飛行場周辺で遭遇した日本軍は爆撃の影響で無力化されており、戦意は全く削がれていた」。[ 10] [ 12]
翌日、島内の他の地域で予想される日本軍の抵抗への対策として、第503パラシュート歩兵連隊 2,000人が島へ降り立った。米軍によって2つ目に接収された基地、ヤブルロ飛行場は、1944年7月4日に制圧された。
7月5日には日本軍による反撃があったが、これは失敗に終わった。同日、ヌンホルから派遣されたアメリカ軍部隊が、近隣の小島であるマニム島を確保した。7月6日、ナムベル飛行場は抵抗もなく連合軍に制圧された。7月7日には全島の制圧が宣言された。しかし日本軍の兵士各個によるゲリラ戦は、8月31日に全ての戦闘が終結するまで続いた。[ 13]
連合軍は8月31日までに、死者行方不明者66人、負傷者343人を数えた。[ 13] 日本側の被害は死亡者約1,714人、捕虜186人であった。[ 14]
アメリカ陸軍の公式記録によると、もともと3, 000人いた日本軍の民間労働者は、8月31日時点ではわずか403人しか生き残っていなかったという。[ 6] 連合軍によって10〜15人ほどが誤って殺害されたとされている。残りは進攻が始まる以前に虐待により既に死亡していた。[ 6]
約300人の台湾人労働者部隊は進攻以前に死亡していた。[ 6] 残りは日本軍により、強制的に連合軍との戦闘に参加させられたという。投降した550人以上のうち、半数以上が飢えと熱帯病 に苦しんでいた。[ 6] 連合軍の戦闘行動により最大で20人が殺害された。
アメリカ陸軍史の研究家によると、飢えた日本人と台湾人により部分的に食された形跡のある、日本人、台湾人および連合軍兵士の遺体が発見されたという。[ 6]
航空基地は日本占領下にあったバリクパパン の石油精製施設への爆撃に、5回に渡って使用された。[ 15] [ 16] この施設は日本 の精製石油 製品の最大35パーセントを供給していた。バリクパパンは、アメリカ第13空軍 および第5空軍 のB-24リベレーター 爆撃機の航続可能距離ぎりぎりに位置していた。1度目の爆撃は1944年9月30日、トーマス・セバーン・マスグレイブ Jr. 大佐の指揮で行われ、2度目はその3日後に行われた。最初の2回の爆撃には戦闘機の護衛がなかったため、甚大な被害を出した。10月に行われた更に3回の爆撃には、新たに加わったサンサポール とモロタイ島 の基地から飛来したP-38ライトニング 戦闘機およびP-47サンダーボルト 戦闘機が護衛に随伴した。
出典
^ KLUCKHOHN, FRANK L. (1944-07-04). “Doughboys Land on Numfor, Swiftly Win Main Airfield” . New York Times . unknown ID: 1504727. http://hn.bigchalk.com/hnweb/hn/do/document?set=searchera&start=1&rendition=x-article-image&inmylist=false&urn=urn%3Aproquest%3AUS%3BPQDOC%3BHNP%3BPQD%3BHNP%3BPROD%3Bx-article-image%3B86869165&mylisturn=urn%3Aproquest%3AUS%3BPQDOC%3BHNP%3BPQD%3BHNP%3BPROD%3Bx-citation%3B86869165 2007年12月26日 閲覧。
^ “Archived copy ”. 2016年3月4日時点のオリジナル よりアーカイブ。2013年7月1日 閲覧。
^ Coello, Francisco "Notas sobre los planos de las bahias descubiertas, en el año 1606, en las islas de Espíritu Santo y de Nueva Guinea, que dibujo el capitán don Diego de Prado y Tovar, en igual fecha" Boletín de la Sociedad Geográfica de Madrid , t IV, primer semestre de 1878, p.234.
^ a b c “Numfor (Noemfoer) Island ”. Pacific Wreck Database. 2007年12月26日 閲覧。
^ Smith, Robert Ross (1953). “Operations on Numfor Island” . United States Army in World War II: The War in the Pacific; The Approach to the Philippines . Chapter XVII. Washington, D.C.: United States Army Center of Military History . pp. 397. http://ftp1.us.proftpd.org/hyperwar/USA/USA-P-Approach/USA-P-Approach-17.html 2008年1月22日 閲覧。
^ a b c d e f Smith, Robert Ross (1953). “Operations on Numfor Island”. United States Army in World War II: The War in the Pacific; The Approach to the Philippines . Chapter XVII. Washington, D.C.: Center Of Military History, United States Army. pp. 421–2
^ “Last Numfor Air Base Seized” . Chicago Daily Tribune . (1944年7月8日). unknown ID: 6033702. http://hn.bigchalk.com/hnweb/hn/do/document?set=searchera&start=1&rendition=x-article-image&inmylist=false&urn=urn%3Aproquest%3AUS%3BPQDOC%3BHNP%3BPQD%3BHNP%3BPROD%3Bx-article-image%3B462465422&mylisturn=urn%3Aproquest%3AUS%3BPQDOC%3BHNP%3BPQD%3BHNP%3BPROD%3Bx-citation%3B462465422 2007年12月26日 閲覧。
^ a b “American Missions Against Numfor Island [General References ]”. Pacific Wreck Database. 2007年12月26日 閲覧。 [リンク切れ ]
^ Chen, Peter C.. “WW2DB: New Guinea Campaign ”. World War II Database. 2007年12月26日 閲覧。
^ a b Smith, Robert Ross (1953). “Operations on Numfor Island”. United States Army in World War II: The War in the Pacific; The Approach to the Philippines . Chapter XVII. Washington, D.C.: Center Of Military History, United States Army. pp. 411
^ Smith, Robert Ross (1953). “Operations on Numfor Island”. United States Army in World War II: The War in the Pacific; The Approach to the Philippines . Chapter XVII. Washington, D.C.: Center Of Military History, United States Army. pp. 408
^ Morison, Samuel Eliot (2002). “New Guinea and the Marianas, March 1944 - August 1944” . History of United States Naval Operations in World War II . Volume Eight. University of Illinois Press. pp. 138. ISBN 978-0-252-07038-9 . https://books.google.com/?id=R-KfgdHvv88C 2008年1月22日 閲覧。
^ a b Gill, G. Hermon (1968). “Chapter 14—The Assault Armadas Strike” . Royal Australian Navy, 1942–1945 (1st edition). Australia in the War of 1939–1945 . Canberra: Australian War Memorial . pp. 443. http://www.awm.gov.au/cms_images/histories/25/chapters/14.pdf 2008年1月22日 閲覧。
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^ “Knockout Blow? The Army Air Force's Operations against Ploesti and Balikpapan ”. Defense Technical Information Center. 16 February 2020 閲覧。
^ “Weekend Wings #28: The Balikpapan Raid ”. Bayou Renaissance Man. 16 February 2020 閲覧。
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