ナーシルッディーン・マフムード・シャー (トゥグルク朝)
ナーシルッディーン・マフムード・シャー(Nasir-ud-Din Mahmud Shah, 生年不詳 - 1413年)は、インド北部を支配したトゥグルク朝の第8代君主(在位:1394年 - 1413年)。父は第6代君主のナーシルッディーン・ムハンマド・シャー。 生涯1394年に父が死去し、その後を継いだ兄のアラー・ウッディーン・シカンダル・シャーもすぐに死去したために即位した[1]。 だが、これに反対する貴族らはマフムード・シャーの甥ナーシルッディーン・ヌスラト・シャー(ギヤースッディーン・トゥグルク2世の弟にあたる)を擁立し、トゥグルク朝の宮廷は二分されていた。マフムード・シャーはデリーを、ヌスラト・シャーはフィールーザーバードを支配し、争いを繰り広げた[1]。 また、マフムード・シャーによってジャウンプル総督に任命されたマリク・サルワルが同年に独立を宣言し、ジャウンプル・スルターン朝を建国している。 このようなトゥグルク朝の情勢の乱れは、サマルカンドのアミール(ティムール朝)・ティムールの元にも伝わり、ティムールは「ジハードを行う」という大義名分の元(実際にはインドから富を得るため)、1398年7月にインダス川を越えて北インドへと進軍した。 同年11月26日、トゥグルク朝の軍勢はティムールの軍勢にデリー郊外の平原で激突して敗れた[2]。ティムール朝の公式記録によると、ティムール軍10万に対してトゥグルク朝軍は歩兵4万、騎兵1万2千、戦象120のみであり、ムハンマド・ビン・トゥグルクやフィールーズ・シャー・トゥグルクの時代の軍勢の10分の1程度であったことから、トゥグルク朝の衰退が窺える。 さらに12月17日にて、ティムール軍はデリー郊外でトゥグルク朝軍を破り、翌18日にはデリーに入城して略奪を行い、金銀財宝をはじめ大量の物資が奪われた[2]。また、ティムール軍の撤退までにデリーとその周辺の住民10万人が殺害され、そのほとんどがヒンドゥー教徒であったとされている。 同年12月末、ティムール軍は莫大な略奪品と多数の奴隷とともに引き上げた。ティムールによるデリー侵攻と破壊、大量虐殺はトゥグルク朝の衰退を決定的なものとしたのみならず、王朝の権威そのものも失墜させた。生き残ったデリーの住民の大半も他の地域へと移住した[2]。 その後、マフムード・シャーはなんとかしてデリーに戻ったものの、強力な臣下の言いなりにならざるを得なかった[2]。また、1401年にはマールワー・スルターン朝が、1407年にはグジャラート・スルターン朝がそれぞれトゥグルク朝から独立した。 1413年(あるいは1412年)、マフムードは死去し、トゥグルク朝は断絶した。王家の断絶により、王位は権臣であるダウラト・ハーン・ローディーが後を継いだが、翌年ヒズル・ハーンがデリーを占領し、トゥグルク朝は名実ともに終焉を迎えることとなった[2]。 脚注参考文献
関連項目
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