ナズリ・ナシル
ナズリ・ナシル(Nazri Nasir、1971年1月17日 - )は、シンガポールの元サッカー選手、現サッカー指導者。元シンガポール代表主将[8]。ポジションは守備的ミッドフィールダーまたはセンターバック。 戦う事も出来、よく走り、強力なタックルを持つ選手として知られた他[2]、シンガポールの主将として挑んだ1998 タイガーカップでは同国に初めての優勝を齎した。 クラブ歴1988年にシンガポールサッカー協会プレミアリーグに所属するジュロン・タウンFCでサッカー選手となった[4]。1988年と1989年にはプレジデンツ・カップを制覇している[9]。1990年にはラフィ・アリ、サニザル・ジャミルと共に、チェコスロバキアのFCニトラに二ヶ月のトレーニングを受けに行っている.[10][11]。FCニトラからのプロ契約の打診があったもののこれを断り[12]、1991年にバレスティア・ユナイテッドFCと年俸1万シンガポール・ドルの二年契約をした[5]。その後、シンガポール警察サッカー部へ移籍。 1994年2月には、シンガポールFAと2年の契約を結んだ[6]。これによって、マレーシア・スーパーリーグへの参戦とマレーシアカップへの参加を経験する事となった[13]。同チームがマレーシアから追放され、1995年の東南アジア競技大会がシンガポールで開かれる事となると、シンガポールサッカー協会は同チームのプレミアリーグへの移籍及びSリーグの創設を決定した[14]。この年はプレミアリーグで優勝を果たしている。 Sリーグが開幕した1996年はセンバワン・レンジャーズFCに所属した。その翌年からはシンガポール・アームド・フォーシズFCに移籍し、1997年、1998年、2000年に同チームでリーグ優勝を果たした。2002年にはタンピネス・ローバースFCに移籍し、センターバックとして活躍[15]、2004年と2005年にリーグ優勝をした。37歳となった2008年、タンピネス・ローバースFCで現役を引退した。 代表歴代表デビューは1990年9月13日に行われたマレーシア代表戦であった[7]。 1992年11月19日にはパン・アイランド高速道路で乗っていたバイクで事故に遭い、背骨と右の鎖骨が粉砕された[16]。5週間のリハビリの後に復帰したものの[17]、1993年2月に行われたムルデカ大会1993には出場出来なかった[18]。 1997年にはシンガポール代表の主将となり、1998 タイガーカップでは主将として同国を初優勝に導いた。 2007年6月にはFIFAセンチュリークラブの一員となった[19]。 監督歴選手として引退した後には、現役を引退したタンピネス・ローバースFCで総支配人を務めた[20]。その後は、シンガポール国立フットボールアカデミーのU-15監督を務め、2012年と2013年のライオン・シティ・カップに監督として参戦した。 2013年12月16日には、シンガポール・ライオンズXIIのアシスタントコーチに就任した[21]。同チームではシンガポールFAでのチームメイトであったファンディ・アマドの下で任務を全うしている。 個人彼の父親は1993年12月に69歳で亡くなっている[22]。母親については、自身が8歳の時に喘息を発症し、成績も芳しくなかったにも関わらず、サッカーのサポートをしてくれたと云う[23]。兄弟が6人、姉妹が4人いる[24]。兄のナズリ・アミンも元シンガポール代表のディフェンダーで現在サッカー指導者となっている[25]。 センバワン小学校を卒業し、シ・リン中学校を卒業した。その後工芸教育学院で学位を取得した[24]。 1994年11月27日には客室乗務員と結婚した[26]。息子が二人おり、彼らは国立フットボールアカデミーにセンターバックとして在籍している[27][28]。娘は2004年10月に生まれた。 また、トッテナム・ホットスパーFCのファンである[24] 。 タイトルクラブ
代表
個人
参考文献
外部リンク
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