ドン・ドッケン
ドン・ドッケン(Don Dokken、1953年6月29日 - )は、アメリカ合衆国のハードロック・ボーカリストである。LAメタル・バンド、ドッケンのリーダー。ノルウェー系アメリカ人。身長183cm。また近年は、若手のバンドを発掘してアルバムのプロデュースも行っている。 経歴デビューまで最初に結成したバンドは1977年で、当時のメンバーはドレイク・レヴィン (ギター)、ビル・ロードン (ドラム)、ラスティ・アレン (ベース)であった。その後、1978年に後のラットのボビー・ブロッツアーとともに「AIRBORN」を結成。「スターウッド・クラブ」や「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」といったクラブでプレイしていた。この時「THE BOYZ」というバンドに出会う。当時そのバンドには、ジョージとミックがプレイしていた。その後すぐに「AIRBORNE」は崩壊してしまう。1979年に、ドン自らの姓をバンド名とする「ドッケン」を結成。スティーヴン・バリー (ベース)、グレッグ・ペッカ (ドラム)と、最初のシングル「Hard Rock Woman」を「Hard Rock」なる自主レーベルからリリースしている。1978年にドイツをツアーし、その後、アメリカに戻って一度バンドは解散している。が、ドンは、ベースのフォアンとともにドッケンを再結成させる(ドラムには、新たにゲイリー・ホーランドを加入させている)。そして、新たにギターにグレッグ・レオン、ベースにゲイリー・リンクを加入させ、『バック・イン・ザ・ストリーツ』をリリースする(当時のプロデューサーがバンドに無断でリリース)。が、しかしそのゲイリーもグレイト・ホワイトに加入するためにバンドを去ってしまう。そして、再びバンドを解散させ、ドンは一人ドイツに渡り、再びボビー・ブロッツアーとフォアンの兄のトム・クルーシェと出会い、デモテープ制作を行い、CARRERE RECORDSと契約する。そして、再びフォアン・クルーシェを加入させた後、1981年ドイツで急遽レコーディングをすることとなった。当時は流動的なメンバーだったため「XCITER」のミック・ブラウンを加入させたが、彼はジョージ・リンチが一緒に加入するという条件でOKしたのだった(ドン自身がギターをプレイするのでギタリストは必要なかったと後のインタビューで語っている。ジョージがオジー・オズボーンで活動していた頃、ウォーレン・デ・マルティーニもドッケンで活動していた)。 メジャー・デビュー - 解散ドイツにてレコーディングを行い、ドン・ドッケン、ジョージ・リンチ、フォアン・クルーシェ、ミック・ブラウンというラインナップでデビュー・アルバム『ブレーキング・ザ・チェインズ』を制作した(実際、ベースをプレイしているのはピーター・バルテス)。その後、フォアンの後任にジェフ・ピルソンが加入し、1983年にエレクトラ・レコードと契約。デビュー・アルバムである『ブレーキング・ザ・チェインズ』(曲を一部差し替え)の再発を経て、1984年に出世作となったセカンド・アルバム『トゥース・アンド・ネイル』を発表(「アローン・アゲイン」がスマッシュ・ヒット)。その後、1985年にアルバム『アンダー・ロック・アンド・キー』、1987年にはアルバム『バック・フォー・ジ・アタック』を発表。発売2週間でダブルプラチナを獲得した(全米チャート13位)。1988年、来日公演の模様を収録したライブ・アルバム『ビースト・フロム・ジ・イースト』をリリース。しかし、ドンとジョージの確執が深刻化してゆき、「モンスターズ・オブ・ロック」のツアーを終了と同時にドンが脱退する形でバンドは解散する。 ソロ活動 - ドン・ドッケン・バンドの誕生ドンはピーター・バルテス(現アクセプト)、ミッキー・ディー(元キング・ダイアモンド、モーターヘッドを経て現スコーピオンズ)、ジョン・ノーラム(現ヨーロッパ)、ビリー・ホワイト(元ウォッチタワー。現在は引退して僧侶になった)と共に、バンド「ドン・ドッケン」としてゲフィン・レコードからアルバム『アップ・フロム・ジ・アッシェズ』を発表した。その後、メンバーが次々と去って行き解散。 なお、結成当初はベースにパトリック・ヤング(ブラック・アンド・ブルー)とヘンポ・ヒルデン(ミッドナイト・サン)がメンバーだった。 ドッケン再結成 - メンバー・チェンジ - 現在1994年に全盛期のメンバーでドッケンが再結成されるが、2枚のアルバム(『ディスファンクショナル』『シャドウライフ』)をリリース後、1997年にジョージが再び脱退(実際は解雇)。ツアーにはジョン・ノーラムがヘルプする形で行っていた。その後、後任には、レブ・ビーチ(現ウィンガー、現ホワイトスネイク)を迎え『イレイズ・ザ・スレート』を発表、その後、ジョン・ノーラムにギター交代させると今度はジェフが脱退(現在は、フォリナーで活動中)、ベースを新たにバリー・スパークスを迎えて『ロング・ウェイ・ホーム』をリリース。その後、ツアー中にジョンが怪我で、アレックス・デロッソが代役で参加させる(ジョンはそのままバンドを去る)。その後、『Hell to Pay』のレコーディングに入ろうとするが、アレックスのビザの関係でアメリカに来られず、新たに元WARLOCKのメンバーで1997年に一度、ドッケンのライブに参加したことがあるジョン・レヴィン(ギター)を迎えてレコーディングを行い、アルバムをリリースした。2008年にはアルバム『ライトニング・ストライクス・アゲイン』をリリース。また、ソロ・アルバム『Solitary』をリリースしている。 以降もドッケンとしてのアルバム発表、ライブでの活動が続いた。2012年、アルバム『ブロークン・ボーンズ』を最後にドッケンの活動を終え、マイケル・シェンカーと『Faith』という作品を制作すると語っていたが、その後もバンドは活動を続けている。 プロデューサー業若手のバンドのアルバムのプロデュースをすることでも有名。ブラック・アンド・ブルーのデビュー前のデモのプロデュースを行ったりもしていた。また「Phantom Blue」のデビューにも関わっている。その他、プロデュースに関わったアルバムは下記のとおり。
人物・エピソード
ディスコグラフィスタジオ・アルバム
外部リンク |
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