ドロシー・アシュビー
ドロシー・アシュビー(英語: Dorothy Ashby、1932年[注 1]8月6日 – 1986年4月13日)は、アメリカのジャズ・ハーピスト[3][4]、バンドリーダー[3]、作曲家[4]。代表的なアルバムには『Afro-Harping』や『ルバイヤート・オブ・ドロシー・アシュビー』が挙げられ、後者においては箏も演奏している[3]。 来歴大学卒業ごろまでドロシー・ジーン・トンプソン(Dorothy Jeanne Thompson)は、1932年[注 1]8月6日にミシガン州デトロイトで生まれた[3][4]。父のウィリー・トンプソン(Wiley Thompson)は独学のジャズ・ギタリストで、幼少時のドロシーは父の音楽仲間のセッションを聴くだけでなく、ともにピアノを演奏することもあった[5][6][2]。また父からは、和声と旋律の構造について広範な指導も受けた[5]。 キャス工業高校在学中には、サクソフォーン奏者としてトランペット奏者のドナルド・バードとともにマーチング・バンドに参加した[5]。当時のクラスメートにはバードのほかジェラルド・ウィルソンとケニー・バレルもおり、ドロシーはダブルベースにも堪能であった[3][2]。ハープに出会ったのもこのころで、学校所有のハープを弾く機会を得た彼女は、 ジャズ・ハーピストとしての活躍ドロシーは徐々にピアノからハープへと楽器を切り替え、1952年にはハープを購入し、メインの楽器として演奏するようになった[3][7][4]。同年には、フィラデルフィアのナイト・クラブでプロとしての契約を得ている[4]。ジャズにおけるハープの使用は、キャスパー・リアドンによるジャック・ティーガーデンとベニー・グッドマンとの1930年代の録音が先例として挙げられるが[注 2]、一般的とはいえず、ハープはクラシック音楽に属しているとする否定論者もいた[5]。ドロシーは無料のコンサートを開催したり、パーティーや催し物での演奏をとおして、ジャズ・アンサンブルにおけるハープの宣伝に努めた。その後、ドロシーは、デトロイトのクラブにも務めた。また1950年代の間に『ザ・ジャズ・ハーピスト』『ヒップ・ハープ』『イン・ア・マイナー・グルーヴ』といったアルバムを発表している[4]。 おそくとも1960年代初頭までに、ドロシーはドラマーのジョン・アシュビー(John Ashby)と結婚した[4]。このころドロシーは、WJR局で自身のラジオ番組を持っており、社会問題についての発言なども行っていたという[3][9]。また夫とともに、アフリカ系アメリカ人の演劇集団であるアシュビー・プレイヤーズ[注 3]を結成している[3]。1962年にドロシーは、『ダウン・ビート』誌の年間調査において「オールスター」ジャズ奏者の一人に選ばれている[4]。1960年代には、代表作とされる『Afro-Harping』のほか『ドロシー・アシュビー』『ソフト・ウィンズ』『ジャズ・ハープの女神 - ドロシー・アシュビー登場』といったアルバムを発表しており、このころの主な共演者としてはジミー・コブ、エド・シグペン、リチャード・デイヴィス、フランク・ウェスらが挙げられる[4][10][11]。1960年代後半にアシュビー夫妻のトリオはカリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を移し、全米各地をツアーで回った[4]。 1970年に発表した『ルバイヤート・オブ・ドロシー・アシュビー』においては、箏の演奏も行っている。1970年代には、ビル・ウィザースの協力のもと、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、バリー・マニロウ、スタンリー・タレンタイン、フレディ・ハバード、ビリー・プレストン、ボビー・ウーマック、アース・ウィンド・アンド・ファイアーといった一線級アーティストの録音に参加している[4]。 ドロシーの最後のアルバムは、1984年に発表された『朝日のようにさわやかに〜クイーン・オブ・ジャズ・ハープII』と『恋のアランフェス、イエスタデイ〜レインボー・ハープ』の2枚である[4]。 晩年と死去ドロシー・アシュビーは、1986年4月13日にカリフォルニア州サンタモニカにおいて癌により53歳で死去した[4]。 音楽性と評価Jenkins (2012) はドロシー・アシュビーの演奏について、 ドロシーは「最も過小評価された1950年代のジャズの巨人の一人」であるとされる[12]。またドロシーの音源は、ヒップホップにおいてしばしばサンプリングされている[3][注 4]。ジャズ・ハープ奏者としては、ブランディ―・ヤンガーがドロシーからの影響を語っている[9]。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
参加アルバム
脚注注釈出典参考資料
外部リンク
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