トーマス・フィリップス

サー・トーマス・フィリップス
Sir Thomas Phillips
渾名 親指トム(Tom Thumb)
生誕 (1888-02-19) 1888年2月19日
イギリスの旗 イギリスペンデニス城英語版
死没 (1941-12-10) 1941年12月10日(53歳没)
イギリス領マラヤマレー半島
所属組織  イギリス海軍
軍歴 1903年 - 1941年
最終階級 海軍大将
指揮 東洋艦隊
戦闘 マレー沖海戦
勲章 バス勲章
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サートーマス・スペンサー・ヴォーン・「トム」・フィリップス英語: Sir Thomas Spencer Vaughan "Tom" Phillips, KCB1888年2月19日 - 1941年12月10日)は、イギリス軍人。最終階級は海軍大将。1941年12月10日、マレー半島東海岸沖合にて日本軍の攻撃により乗艦プリンス・オブ・ウェールズと運命をともにして戦死した[1]ニックネームは短躯から「親指トム」(Tom Thumb)。

経歴

1888年2月19日コーンウォールファルマスにあるペンデニス城英語版イギリス陸軍要塞)に生まれる[2]。父は陸軍軍人トマス・フィリップス砲兵大佐、母はルイーザ・ド・ホージー(アルジャーノン・ド・ホージー英語版海軍大将の娘)[3]

1903年に士官候補生として海軍に入隊した。1907年に少尉、翌年7月には中尉に進んだ[2]

第一次世界大戦が始まると、装甲巡洋艦バカンテ英語版の航海士としてダーダネルス戦役に参加した[2][3]。次いで装甲巡洋艦ランカスター英語版の航海士に転じ、艦長代理を経て1917年に副長に就いた[2]

戦後は、国際連盟イギリス代表部所属の海軍軍人として3年を過ごしたのち、1921年に中佐に昇進した[2]

1924年に地中海艦隊作戦参謀に任じられ、サー・ロジャー・キーズ英語版司令長官のもと、ダドリー・パウンド参謀長と協力して職務に励んだ[2][3]

1927年に大佐に進級するとともに、駆逐隊群司令となる。以降は計画部補佐官を経て、重巡洋艦ホーキンズ英語版東インド戦隊英語版旗艦)の艦長となる[2][3]

1938年、准将に進級し、本国艦隊麾下の駆逐艦総司令を拝命した。在任中、配下の駆逐艦エンカウンターが空母フューリアスと衝突事故を起こしたが査問委員会は開かれなかったため、フィリップスは責任を取らずに済んだ[2]

翌年1月に少将に進んだが、コネによるものと評されたという[2]。その年の夏、第一海軍卿となった旧知のパウンド提督から海軍参謀副長英語版への就任を求められた[2]。フィリップスはこれを了承し、参謀副長(階級としては中将代理)を拝命した。さらに1940年に副長職が廃されて海軍参謀次長英語版職が新設されると、フィリップスがそのまま横滑り就任した[2]。この副長・次長時代にウィンストン・チャーチル首相の知遇を得たが、ドイツへの報復爆撃(1940年9月)を批判したことなどで次第に疎遠になった[2]

1941年5月、近く再編される東洋艦隊司令長官となることが内定した[2]。同時に大将代理に飛び級昇進した。この昇進は物議を醸し、周囲からは「コネによる人事、海上勤務の経験が少ない」などの不満の声もあったという[2]

マレー沖海戦

シンガポールに着任したフィリップス(1941年12月2日)左隣は参謀長のアーサー・パリサー英語版少将。

1941年11月25日、海軍大将に昇格。11月29日航空機シンガポールに着任[注釈 1]12月2日には東洋艦隊司令長官に就任した。 フィリップス提督は航空機でフィリピンマニラに移動し、アメリカ軍と打ち合わせをおこなう[5]。日本軍輸送船団マレー半島に出現の情報により、急遽、シンガポールに戻った[6]

12月8日太平洋戦争勃発と共に日本軍は南方作戦の一環として馬来作戦を発動し、マレー半島のコタバル[7]シンゴラに上陸を開始した[8]。フィリップス提督は戦艦プリンス・オブ・ウェールズに将旗を掲げ、巡洋戦艦レパルスと駆逐艦数隻を従えて、日本軍上陸船団を撃退するためシンガポール海軍基地を出撃した[9]。この艦隊にはイラストリアス級航空母艦インドミタブル」が所属していたが、同艦は訓練中にバミューダ島において座礁して修理を余儀なくされた[6]。空母不在で、イギリス空軍の掩護が受けられるか不明という状況下、ともかくZ部隊は日本軍輸送船団を目指して出撃した[10]

航行中のZ部隊は、日本海軍の潜水艦に捕捉された[注釈 2]12月10日サイゴンツドゥムThu Dau Mot)から発進した日本海軍軍航空隊(馬来部隊、小沢治三郎中将所属)の数度に亘る攻撃を受ける[注釈 3]。まずレパルスが1403(午後2時3分)に沈没した。「不沈戦艦」と謳われていたプリンス・オブ・ウェールズも[14]、魚雷命中により航行不能となり、12月10日1450(午後2時50分)に沈没した[13]。ウェールズ沈没後、フィリップス提督とリーチ艦長は行方不明となり、戦死認定となった。

なおレパルスに乗艦して沈没を経験した従軍記者のセシル・ブラウンは、マレー沖海戦の体験を『スエズからシンガポールへ Suez to Singapore』として刊行した[15]。同著ではフィリップス提督とリーチ艦長について、沈没まで「ウェールズ」の艦橋にとどまっており、「将兵よ、さらば」を連呼しながら脱出した将兵にハンカチを振っていた……と記述している[15]

日本の報道によれば、救助のため駆逐艦がウェールズに接近して移乗を薦めた[注釈 4][注釈 5]。 すると艦橋の提督は駆逐艦に"No thank you."(ノー・サンキュー)と答え、プリンス・オブ・ウェールズ艦長ジョン・リーチ大佐も同じく拒否した[注釈 6]

参謀が退艦を懇請したが「ノー・サンキュー」と断ったという記述も見られる[13]

脚注

注釈

  1. ^ 戦艦「ウェールズ」や巡洋戦艦「レパルス」は海路でヨーロッパから極東へ移動しており[4]、フィリップス提督とは別行動である。
  2. ^ 12月9日午後3時15分に伊65がZ部隊を発見[11]。12月10日午前3時40分、伊58がZ部隊を発見[12]
  3. ^ 帆足正音予備少尉の九六式陸上攻撃機(索敵)がZ部隊を確認して攻撃隊を誘導、元山海軍航空隊美幌海軍航空隊鹿屋海軍航空隊の九六陸攻や一式陸上攻撃機がZ部隊攻撃に参加した[13]
  4. ^ この時、サー・トーマス・フィリップス提督は終始艦橋に立つてゐた。レパルスが将に轟沈せんとする刹那、驅逐艦が側に寄り、「乗艦せられたし」と信號したが、「ノー・サンキュー」と答へ艦橋で擧手の禮をしつゝ艦と運命を同じうした。リーチ艦長も、フィリップス提督とならんで擧手の禮をなし、レパルスが棒立になると吸込まれるやうに海に消えてしまつた。一瞬にして巨體は海中に没してしまつた。[16](以下、ウェールズ沈没略)(註、レパルス艦長はウィリアム・テナント大佐、生還)
  5. ^ ウェールズに接舷して乗組員を収容したのは、駆逐艦エクスプレスである。
  6. ^ (中略)[17] 哀れ近代科學の粹を盡した不沈艦ウエールスの最後は迫つた。驅逐艦が其の舷側に近ついたとき、相次いで起つた二囘の爆發はホワイトエンサインの軍艦旗を飜したまゝ艦尾から徐々に沈没し始めた。/ おう、この三十秒!歴史の足跡は暫しの鳴りを鎭めて大英帝國の代表艦の最後を見守つた事であらう。/ 東洋艦隊司令長官サー、トーマス、フイリツプス大将は、最後迄艦橋に立つて指揮してゐたが、将に沈没せんとした時、接近し來つた驅逐艦が「乗艦せられ度し」と信號したるに答へて「ノー、サンキュー」と一語を殘し艦橋で擧手の禮をなしつゝ艦と運命を共にし、リーチ艦長も長官と並んで擧手の禮をなしつゝ艦が棒立ちとなるや吸込まれる様に海中に消えて行つた。(中略)翌日、偵察機の一隊がこの戰場を他の新しい希望に燃えて飛び去る時、幾束かの花が、敵ながら天晴れに戰つた英軍の戰死者と、彼等が多年睦み合つた戰共の英靈へと投げられたのである。

出典

  1. ^ 世界大海戦史考 1943, p. 15原本10頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n Murfett, Malcolm H. (23 September 2004) [2004]. “Phillips, Sir Tom Spencer Vaughan”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/35515. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b c d 高田 泰光 編『第2次世界大戦のイギリス軍艦』 2016 No.839、海人社〈世界の艦船6月増刊号〉、2016年5月17日、205頁。ASIN B01EYMD2LI 
  4. ^ 南支那海の海戰〔一〕セシル・ブラウン著『スヱズからシンガポール』より抜萃 T生 七日前”. Hoji Shinbun Digital Collection. Rokkī Shinpō. pp. 02 (1943年10月25日). 2023年10月28日閲覧。
  5. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 60–65英艦隊側からの展望
  6. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, p. 61.
  7. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 50–52コタバル上陸成功
  8. ^ シンゴラ敵前上陸<馬来進撃>”. NHKアーカイブス. 2023年10月28日閲覧。NHKアーカイブスポータル
  9. ^ 呆れたり英東洋艦隊最後の日 愚なる勝算の夢 星港陥落三ヶ月目の秘話”. Hoji Shinbun Digital Collection. Manshū Nichinichi Shinbun. pp. 02 (1942年5月30日). 2023年10月28日閲覧。
  10. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 62.
  11. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 53.
  12. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 55.
  13. ^ a b c 智将小沢治三郎 2017, pp. 56–58.
  14. ^ 松尾樹明 1942, pp. 165–168(原本307-312頁)二、「轟沈」と不沈戰艦
  15. ^ a b 南支那海の海戰〔十四〕セシル・ブラウン著『スヱズからシンガポール』より抜萃 T生 兩将最後”. Hoji Shinbun Digital Collection. Rokkī Shinpō. pp. 02 (1943年11月24日). 2023年10月28日閲覧。
  16. ^ 松尾樹明 1942, p. 161原本298頁
  17. ^ 制海万里 1942, pp. 50–51原本69-71頁

参考文献

  • 生出寿「第一章 面目躍如、マレー沖海戦」『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 

関連項目

外部リンク

軍職
先代
サー・アンドルー・カニンガム
海軍参謀副長英語版
1939年–1940年
次代
廃止
(戦後の1946年に再設置され、サー・ロバート・オリヴァー英語版が就任)
先代
新設
海軍参謀次長英語版
1940年 - 1941年
次代
ヘンリー・ムーア
先代
サー・ジェフリー・レイトン英語版
東洋艦隊司令長官
1941年12月
次代
サー・ジェフリー・レイトン

 

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