ドリスヒルの研究所所長W・G・ラドリーはフラワーズのプロジェクトを完全に支持していた。優先的に部品を融通してくれたおかげで、フラワーズ率いるドリスヒルの専門家チームは11カ月でマシンを完成させた。非常に巨大だったため、ブレッチリー・パークのスタッフはそれを Colossus と命名した。電気機械式の従来の暗号解析装置 Heath Robinson に比べると、5倍も高速で、はるかに柔軟性があった。さらにコンピュータが必要になることを予想し、1号機が完成する前から2,400本の真空管を使用する Mark 2 の設計を開始している。
最初の Colossus Mark 2 は、1944年6月1日にブレッチリー・パークで運用を開始し、間もなく6月5日に計画されていたD-デイ(悪天候で実際には1日延期された)にとって重要な情報の解読に成功した。フラワーズは後に、ドワイト・D・アイゼンハワーおよび彼のスタッフと6月5日に行った重要なミーティングについて詳述しており、急使が部屋に入ってきてアイゼンハワーにColossusの暗号解読結果の要約ノートを手渡したと述べている。その内容は、ヒトラーが連合軍のノルマンディー上陸作戦準備を偽装だと考えており、ノルマンディーへの追加部隊派遣を不要としている、という内容だった。ノートを返したアイゼンハワーは、「明日、決行する」とスタッフに告げた[3]。
戦後、政府は1,000ポンドをフラワーズに与えたが、Colossus製作にフラワーズが自腹を切ったぶんには足りなかった。皮肉なことに、フラワーズはColossusのようなコンピュータを事業化するため銀行に融資を申し込んだが、銀行はそんな機械が動作するとは信じられず、融資しなかった。Colossusのことは機密扱いだったため、銀行に対して既に作ったことがあるとは言えなかったのである。その業績は1970年代まで一般に知られることはなかった。家族も、何か秘密の重要なことを戦時中にやっていたということしか知らなかった[6]。戦後も英国中央郵便本局研究所(英語版)に勤務し、交換局部門の責任者となった。世界に先駆けて完全電子式の電話交換機を研究し、1950年には基本設計を完成させ、それがハイゲイトウッド電話交換局(電子交換機の試験運用局)へと結実した。また、ERNIEという電子式乱数発生器の開発にも関与した(くじ付き債券の抽選用)[7]。1964年、Standard Telephones and Cables Ltd. の先進開発部門の責任者となり、完全電子式電話交換機の開発を継続してパルス振幅変調の交換技術などを研究、1969年に引退した[8]。
1976年、電話交換技術に関する著書 Introduction to Exchange Systems を出版[9]。
1993年、PCを使った情報処理の基礎コースを修了し、Hendon College から証明書を受け取った[10]。
1998年、92歳で死去し、妻と2人の息子が残された[1]。英国中央郵便本局研究所(英語版)がかつてあった場所(現在は住宅地)にはフラワーズの記念碑があり、その通りは Flowers Close と呼ばれている。2010年11月、若者向けの情報技術教育センター Tommy Flowers Centre がオープンした[11]。このセンターは既に閉鎖されたが、建物名は "Tommy Flowers Centre" のままとなっている。