デルビー・デッラ・モーレ
デルビー・デッラ・モーレ(伊 : Derby della Mole)またはデルビー・ディ・トリノ(伊 : Derby di Torino)は、イタリアのピエモンテ州・トリノに本拠地を置くサッカークラブ、ユヴェントスFCとトリノFCが対戦するローカル・ダービーのことである。英語風にトリノ・ダービー(英 : Turin Derby)とも言う。初のダービーは1907年に開催され、イタリア最古のダービーマッチのひとつである。この項では、単にトリノと表記する場合はトリノFCを指し、自治体としてのトリノはトリノ市と表記する。 文化トリノ市の有名な観光地であるモーレ・アントネリアーナが名称の由来である[1]。トリノ市は北イタリア最大の産業都市のひとつであるが、このダービーはピエモンテ州内やトリノ市内での階級格差を象徴している。ユヴェントスはフィアットを所有するアニェッリ家の富と関連付けられ、トリノ市出身の小説家・映画監督のマリオ・ソルダーティは、ユヴェントスから「紳士のクラブ、産業の先駆者、イエズス会修道士、保守的、裕福な中産階級市民」を想起するとし、トリノから「労働者階級のクラブ、地方や近隣諸国から移り住んだ労働者、低位の中産階級や貧困層」を想起するとしている[2][3]。 ダービーの際には、ユヴェントスのサポーターは相手サポーターに対して「Inferior!」「Minors!」(下流)などと叫び、トリノのサポーターは相手サポーターに対して「Cheats!」(詐欺師)や「Scumbags!」(クソ野郎)などと叫ぶ[4]。デルビー・ディ・ミラーノ(ミラノ・ダービー)やデルビー・デッラ・カピターレ(ローマ・ダービー)ほどは注目を集めないが、両クラブはピエモンテ州で最も大きく最も成功を収めたクラブであり、北イタリアの地域的なシンボルであるため、両クラブサポーターのライバル意識は鋭敏に感じられる[2][5]。 歴史ユヴェントスは1897年に創設された。1906年12月、ユヴェントスの内部問題がきっかけとなって元会長がトリノを創設した[6]。この分裂騒動が友好関係を弱め、両クラブのライバル意識に火を付けた。1967年のダービーはトリノが4-0で勝利し、激怒したユヴェントスのサポーターがジジ・メローニ(かつてトリノに在籍)の墓を破壊した[6][7]。1949年に起こったスペルガの悲劇(飛行機が墜落してトリノの選手・監督ほとんどが死去した事故)と1985年に起こったヘイゼルの悲劇(サポーター同士の衝突によって多数のイタリア人を含む数十人が圧死した事故)は、両クラブのサポーターによって事あるごとに持ち出され、ダービー以外の試合でもチャントとして歌われることがある[4]。 21世紀に入ってからは、トリノがセリエA(1部)昇格とセリエB(2部)降格を繰り返していることもあり、ダービーの開催が散発的になっている。2002-03シーズン終了後、トリノはセリエBに降格。トリノは2005-06シーズン終了後にセリエAに昇格したが、ユヴェントスがトリノと入れ替わるようにセリエB降格となった(カルチョ・スキャンダルの制裁措置)。2007-08シーズンにはセリエAで両者が顔を合わせたが、ダービーが行われる前に暴動が発生し、警察がフーリガンを抑え込もうとした結果大混乱になった。火炎瓶が投げられ、多くの車や商店が破壊された。40人が逮捕されて2人の警官が負傷した。2006年まで、両クラブはスタディオ・デッレ・アルピをホームスタジアムとしていたが、2006年にデッレ・アルピの取り壊しが決定し、2007-08シーズンと2008-09シーズンのダービーはスタディオ・オリンピコ・ディ・トリノで行われた。同シーズン終了後にトリノがセリエBに降格したため、しばらくの間ダービーは開催されなかった。2011年、ユヴェントスの新ホームスタジアムであるユヴェントス・スタジアムが完成したため、現在のダービーはオリンピコとユヴェントス・スタジアムで開催されている。2011-12シーズンにはトリノがセリエB 2位となってセリエA昇格を決め、2012-13シーズンには3シーズンぶりにデルビー・デッラ・モーレが開催された[8]。2012年12月1日の対戦はユヴェントスが3-0で勝利し、連続無敗記録を13試合に更新した。 統計
タイトル
試合一覧
脚注
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