デイヴィッド・リンチ
デイヴィッド・リンチ(英語: David Lynch、 1946年1月20日 - 2025年1月15日)は、アメリカ合衆国モンタナ州出身の映画監督、脚本家、プロデューサー、ミュージシャン、アーティスト、俳優。 低予算映画『イレイザーヘッド』で有名となり、「カルトの帝王」と呼ばれることもある。「デビッド・リンチ」「デヴィッド・リンチ」とも表記される。映画のソフトや書籍などの商品には「デイヴィッド・リンチ」と表記されることが多い一方で、ネット上では「デヴィッド・リンチ」と表記されることが多い。 生い立ち幼少時代1946年、モンタナ州ミズーラでアメリカ合衆国農務省(USDA)研究員の父と英語教師の母のもとに生まれる。母方からフィンランド系スウェーデン人の血を引き[2]、長老派教会派[3][4]として育てられた。 生後2か月でアイダホ州サンドポイント、2歳でワシントン州スポケーンに引っ越し、その後もノースカロライナ州ダーラム、アイダホ州ボイジー、バージニア州アレクサンドリアと引っ越しを繰り返す。少年期はボーイスカウトに所属し、最高位である「イーグルスカウト」まで昇格した。 画家を目指す友人の父がプロの画家だったため絵画やドローイングに興味を持ち、ワシントン美術大学、ボストン美術館付属美術学校に通う。このときJ・ガイルズ・バンドのピーター・ウルフとルームメイトだった。しかし「ここには何も触発されるものがない」と、後にプロダクション・デザイナーになるジャック・フィスクと共に欧州留学を計画する。 オスカー・ココシュカのもとで絵画を学ぼうとオーストリアへ渡ったが、街があまりにも綺麗であったことから創作意欲が萎えてしまい、3年間滞在する予定のところを、わずか15日間で帰国することになる[注 1]。 フィラデルフィアへ移住帰国するとフィラデルフィアに移り、フィスクとともに米国最古の芸術学校であるペンシルベニア芸術科学アカデミーに入学。1967年、ここで知り合った妻ペギーが長女ジェニファーを妊娠し、この経験が後にデビュー作に結実する[5]。 住環境は鉄道、工場などに囲まれた極めて悪い条件で、レンガ張りで何部屋もある一軒屋をわずか3,000ドルほどで購入する。この治安の悪さをインスピレーションの一部として[5]、地下室で絵画や映画制作に没頭する。また収入を得るため、エングレービングのプリントを始めた。 キャリア監督デビュー1967年、最初の短編映画『Six Men Getting Sick (Six Times)』を制作。翌年妻ペギーをモチーフに、アニメーションと実写を合わせた実験的な4分の短編『THE ALPHABET』を作り、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の奨学金を得、ロサンゼルスに移る。 1971年、AFIコンサバトリーに入学し、4年の歳月をかけて『イレイザーヘッド』を自主制作、1976年に長編映画監督としてデビューする。制作中の1974年、映画のストーリーと同じように、妻ペギーがリンチのもとを去った。これを含めてリンチは4回の結婚と離婚を繰り返している[6]。リンチはこの作品をカンヌ国際映画祭に送ろうと考えたが周囲に止められ、ニューヨーク映画祭でも上映を拒否された。そのため、深夜上映のようなアンダーグラウンドな形で上映され、『ロッキー・ホラー・ショー』や『エル・トポ』、『ピンク・フラミンゴ』といった映画とともに、カルト的な人気を博した。 1980年代1980年公開の『エレファント・マン』では批評的、興行的にも成功を収め、第53回アカデミー賞において作品賞を含む8部門にノミネートされ、一躍知名度を上げた。また当時、『イレイザーヘッド』のファンだったジョージ・ルーカスから『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の監督のオファーが来たものの、これを断った[5]。 1984年、大河SF小説『デューン』を映画化した『デューン/砂の惑星』が公開。自身にとっては意欲作であったが、ファイナル・カットの権利を有していなかったため、配給会社により大幅にカットされてしまい、興行面と批評面の双方で失敗してしまう。しかしこの経験から、1986年の『ブルー・ベルベット』では大幅な予算カットの代わりにファイナル・カットの権利を手に入れ、自身の思い通りに制作することに成功[7]。本作はアメリカ国内でセンセーショナルな話題を呼んで賛否両論を巻き起こしたが、アカデミー監督賞に再びノミネートされたことで復活を果たした。一方で、本作で知り合った主演女優のイザベラ・ロッセリーニとの交際[注 2]が2度目の離婚のきっかけとなる。 1990年代1990年から自身が手掛けたテレビドラマである『ツイン・ピークス』がABCにて放送開始。本作では監督だけではなく俳優としても出演している。 同年には『ワイルド・アット・ハート』でカンヌ国際映画祭に悲願の初参加を果たし、パルム・ドールを受賞。 2000年代2001年、『マルホランド・ドライブ』でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。同作は3度目となるアカデミー監督賞にもノミネートされ、2016年にはBBCの企画「21世紀最高の映画100本」で1位に選ばれた[9]。 2006年、第63回ヴェネツィア国際映画祭にて、映画人として長年にわたり多くの優れた作品を生み続けていることを称える栄誉金獅子賞を受賞[10]。 2007年、カンヌ国際映画祭の第60回目を記念して制作されたオムニバス映画『それぞれのシネマ』のうちの一つ『アブサーダ』を製作[11]。また同年には現代美術家としてカルティエ現代美術財団にて展覧会「The Air Is On Fire」を開催した[12]。 2010年代2011年1月、ミュージシャンとしてシングル『Good Day Today/I Know』でソロ・デビュー[13]。同年11月にはデビューアルバム『クレイジー・クラウン・タイム』[14]をプレイ・イット・アゲイン・サムよりリリースした。 2012年、リンチを追ったドキュメンタリー映画3部作『LYNCH three project』の3作目『LYNCHthree』(リンチ・スリー)の資金調達のため、ファンから製作費の一部を募る活動が行われていた。日本でも2010年からオンライン基金が呼び掛けられた[15][16]。なお、本作でリンチ自身は製作には直接関与していない。 2017年4月、豪『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙のインタビューにより[17]、2006年の『インランド・エンパイア』を最後に、リンチが映画監督の引退を表明したと世界中で報じられた[18]。リンチは変化する映画界にあって「たとえ素晴らしい作品であっても」「多くの映画が興行成績で上手く行ってない」現状を語り、その一方で「興行で上手く行っているような映画は自分がやりたいと思うようなもの」ではなく「私は作りたくない」と心境を明かした[19][20]。 2019年10月27日、第11回ガバナーズ賞においてアカデミー名誉賞が授与された。アカデミー監督賞に3度ノミネートされたリンチにとって初めてのオスカー受賞となった。授賞式にはカイル・マクラクランとローラ・ダーン、そしてイザベラ・ロッセリーニがスピーチに登壇した[21][22]。 2020年代2022年、スティーヴン・スピルバーグ監督作品『フェイブルマンズ』では俳優としてジョン・フォードを演じた[23]。スピルバーグからローラ・ダーンを介して出演を説得された際、オファーを受ける第一条件がスナック菓子のチートスを撮影現場に用意することだった。また劇中でフォードの、画面の真ん中に水平線を配置するなというアドバイスについて、その通りだと共感を示している[24][25]。 2023年、4度目の離婚が報じられる。2009年から14年間の結婚生活にピリオドを打ち、離婚を申請した妻エミリー・ストーフルとの間に、11歳になる娘ルーラがいる[6][8]。 死去2025年1月15日、ロサンゼルス一帯の山火事の避難先である実娘の家で死去[26](1月16日とするメディアもある[27])。78歳没。訃報は家族がSNSで公表した。死因は不明だが、晩年は8歳から始まった喫煙の影響により肺気腫を患っており、家を出ることさえできなかった。2024年11月からは歩行も酸素吸入が必要であった[26]。 人物映画製作のほか、『Dumbland』などのアニメーションも手掛けている。 映画製作に関わっていない時間は、予算が関係ないという理由で絵を描いたりしている[注 3]。 YouTubeチャンネル「DAVID LYNCH THEATER」において、2020年からリンチ自身が登場する“天気予報”と共に、新作を含む短編映画を公開[28][29]。 影響絵画においてはフランシス・ベーコン[30]、映画においてはフィラデルフィアの町そのものに最も影響を受けた[注 4]。 「アメリカ映画より欧州映画の方により大きな影響を受けた」とたびたび述べている。好きな映画には『サンセット大通り』[31]と『ロリータ』[32]を挙げている。 作風
エピソード
作品長編映画
短編映画
そのほかの関連映画・ドキュメンタリー
テレビ作品・そのほか
コンサート・ビデオ
ミュージック・ビデオ
音楽作品
書籍
展覧会(日本)
脚注注釈
出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia