前年の1815年に小スンダ列島のタンボラ火山(現インドネシア領)が大噴火した影響で、北半球は寒冷化していた。1816年は「夏のない年」と呼ばれ、長雨が続いた。レマン湖畔も例外ではなく雨が降り続き、ディオダティ荘の一同は外出もままならず大いに退屈した。バイロンとシェリーは哲学談義にふけっていたが、その内容はガルヴァーニ電気の可能性、生命の伝達、死者の蘇生、エラズマス・ダーウィン博士の生命実験といった、どちらかというと現代のSFに近いものだった。ある日、バイロンがコールリッジのバラード(詩)『クリスタルベル姫』を朗読していたが、神経過敏だったシェリーは全身に冷や汗をかいて大声を出し、昏倒してしまった。ひとしきりすると一同は気を取り直してドイツの怪奇譚をフランス語に訳したアンソロジー『ファンタスマゴリアナ(英語版)』を朗読することにした。そして朗読後、「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)」とバイロン卿が一同に提案した。[1]
バイロン卿は短いエピソード「小説の断片(英語版)」を書き、後に詩集『マゼッパ(英語版)』に収録した。このエピソードを主治医のポリドリ(主治医といっても、まだ21歳の青年)が小説として膨らませ、バイロン作の短編として発表し、話題になった。『吸血鬼』(The Vampyre, 1819年)である。一方、シェリーは途中で投げ出してしまうが、メアリは1年間こつこつと書き続け、長編小説として発表した。『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein; or The Modern Prometheus, 1818年)である。