ディオスコロ・プエブラ
ディオスコロ・プエブラ(Dióscoro Teófilo Puebla Tolín、1831年2月25日 - 1901年10月24日)は、スペインの画家である。歴史画や肖像画を描き[1]、王立サン・フェルナンド美術アカデミーで教えた。 略歴スペイン北部、ブルゴス県のメルガル・デ・フェルナメンタル(Melgar de Fernamental)で生まれた。Carrión de los Condesの学校で学んだ後、カスティーリャ・イ・レオン州のパレンシアに設立された市立絵画学校(Escuela Municipal de Dibujo de Palencia) に入学した[2][3]。同時期の学生にはホセ・カサード・デル・アリサール(José Casado del Alisal: 1832-1886)らがいる。1845年からマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに進み、ホセ・デ・マドラーソやカルロス・ルイス・デ・リベーラ(Carlos Luis de Ribera y Fieve)に学んだ。 1858年に3年間の奨学金を得てローマに留学し、ローマでは有名なカフェ、アンティコ・カフェ・グレコに集ったスペイン人芸術家の一人となり、 さらに留学は2年間延長され、フィレンツェやヴェネツィアを訪れ、小説家のペドロ・アントニオ・デ・アラルコンと、ナポリやポンペイを旅し、パリにも訪れた。 1863年にスペインに帰国した後、カディスの王立美術アカデミーReal Academia Provincial de Bellas Artes de Cádizの教授職を務めた後、1865年からマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員に選ばれ、教育部門の要職を務めた。 1864年にバイヨンヌで開催されたフランス=スペイン国際博覧会(Exposition Internationale Franco-Espagnole)で入賞し[4]や1867年のパリ万国博覧会、1876年のフィラデルフィア万国博覧会などに参加した。 イザベル女王勲章(Orden de Isabel la Católica)を受勲した。 1901年にマドリードで没した。 作品
脚注
参考文献
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