テメレール級戦列艦 (テメレールきゅうせんれつかん、仏 : vaisseaux de ligne de la classe Téméraire )は、フランス海軍 の74門 戦列艦 の艦級。部品や装備を流用可能にするため同一の設計図を基に建造された最初の艦艇群の一つである。
1782年から1813年の期間に120隻以上が建造され、今日に至るまで主力艦として建造された艦級の同型艦数としては最多のものである。
その設計はイギリス でも高く評価され、捕獲された艦は可能な限り再就役させられ、その設計を模した戦列艦(ポンペイ級 )も建造された。
前史
18世紀前半、フランス海軍 では「ブルボン (フランス語版 ) 」をはじめとする新型戦列艦 の建造を進めていた。多くの船が建造されたが、それらには寸法や備砲の構成に多少の差異があった。当初は36ポンド砲 (フランス語版 ) 26門、18ポンド砲 (フランス語版 ) 28門、8ポンド砲16門、4ポンド砲4門という構成が主流だったが、1739年建造の「テリブル (フランス語版 ) 」以降、36ポンド砲28門、18ポンド砲30門、8ポンド砲16門という構成が主流となった。
スペインでも、この規格を採用した5隻の戦列艦が1760年代にサンタンデール で建造された。
特に七年戦争 で多くのフランス製74門艦を鹵獲し、それを使用したイギリス海軍 は自らも同型の船の建造に着手し、やがて74門艦はヨーロッパ各国の海軍に主力艦として急速に普及した。七年戦争が終わり、多くの艦を失ったフランス では海軍の再建過程で多くの74門艦が建造されたことで、艦の性能はさらに向上した。
開発
1803年6月28日の海戦 (英語版 ) での「ハーキュリー」(元「エルキュール (英語版 ) 」)
ジャン=シャルル・ド・ボルダ が造船技師ジャック=ノエル・サネー (フランス語版 ) の協力を得て推し進めたフランス海軍再建計画では、1/48の設計図が制作され、それによって船体の構造や部品の統一が図られ、特にマストについては標準化が達成された。
当時、サネーはフリゲート (「シビーレ (Sibylle )」「エベー (フランス語版 ) (Hébé )」「ヴィルジニー (Virginie )」)や従来型の74門艦(大型フリゲートに近い)における設計の優秀さで既に知られた存在だったが、1782年に「テメレール (Téméraire )」と名付けた新型74門艦の建造計画を発表した。この計画は造船における技術革新の見本となることが期待された。
「テメレール」は全長55mと同時代の74門艦と比べると大型だが、フリゲートに近い機動性と速度を備えており、また火力や砲の構成でも様々な改良が加えられていた。
特に画期的だったのは同一の設計を採用することで工期やコストを大幅に削減させたことにある。また同一設計の採用は船体の建造工程において著しい生産性の向上も実現させた。同一の部品を使用することで、部品さえあれば国内の全ての造船所において整備や定期修理が可能となった。
同型の船の採用は士官や水兵の乗り替わりを容易にし、彼らの均質化をもたらした。海上での連携のとれた艦隊行動や予備役となった艦の復帰も容易になった。
1783年、1番艦「テメレール」はブレスト で進水した。
運用史
高速で機動性に優れ、敵の大型艦に十分対抗できる堪航性と戦闘力を持つ74門艦は、18世紀末のヨーロッパ各国の海軍において、主力艦として急速に普及していた。
テメレール級もフランス革命戦争 からナポレオン戦争 を通してフランス海軍の主力となり、海戦では後に建造された高速艦のトナン級 (80門)や大火力のオセアン級 (フランス語版 ) (118門)とともに敵艦隊を圧倒することが期待されていた。
しかし、実際の戦闘ではフランス艦隊はイギリス艦隊を相手に連敗を続けた。その原因は、兵器の性能差ではなく、革命政府 や帝政 の下で戦争が続いたために兵員の補充が進まず、海上での経験や技量の面で大きな差があったことが原因である。また船内の劣悪な衛生環境や食糧事情から、イギリスでは1795年に予防法が確立されていた壊血病 に苦しめられる兵員も多かった。
Michèle Battesti[ 注釈 1] は当時のフランス海軍の惨状をこう書いている[ 4] 。
(革命によって)貴族出身の高級将校の多くが軍を追われたことで、海軍参謀本部は機能不全に陥り、そこに人員の不足と質の低下が重なった。海軍の人員募集は、それまで以上に困難になった。
私掠船 との競合、そして政府の混乱によって海軍は弱体化し、
反革命勢力との戦争 はフランス西部と南東部での徴募に影響を与えた。
徴兵 (フランス語版 ) を免れるための逃亡や部隊からの脱走が相次いだ。一例として、コルフ島 から戻ったブリュイ 提督の艦隊は兵員の脱走を防ぐためトゥーロン 沖の海上に留置させられた。9ヶ月間も無給で働かされた上、その倍の期間フランスの土を踏めなかった彼らの心境は想像に難くない。
船の武装を運用する人員を確保するため、強制徴募 、陸軍兵士の転用などあらゆる手段がとられた。船員は漁夫や沿岸航路 ・河川航路 の船員を徴兵したが、彼らの中には海を見たことがない者もいた。
アブキール海戦 に将校として参加した
ルネ・サバティエ・ド・ラシャデネード (フランス語版 ) は「当時の私の部隊には少年兵しかいなかった」と証言している。
結果として多くの船が不慣れな乗組員の手で運用され、ときには出撃した艦隊の4分の1が沈められたこともあった。 一部の例外はあるものの、無能な提督や艦長の主体性のない指揮も敗因とされている。当時のフランス海軍の指揮官は、革命で貴族出身将校の多くがイギリス へ亡命した結果として昇進した者が多く、イギリス海軍の革新的戦術(ホレーショ・ネルソン がアブキール海戦で使った「十字砲火 」、トラファルガーの海戦 での「ネルソン・タッチ」)やカロネード砲 (中距離での命中率は低いが一斉射撃することで敵艦の上部構造を破壊し、装填時間も短い)をはじめとする先進技術に適応できなかった。
処女航海で英国艦「マーズ」に拿捕される「エルキュール」
しかし、これらの戦闘経験からフランス艦の優秀さを認めていたネルソンは「世界最高の海軍とは、イギリス人水兵の乗り組んだフランス製の艦で構成された海軍である」と発言したとされる。
実際に、イギリス海軍 では無傷に近い状態で鹵獲できた敵艦を整備して自軍の戦力とする例は多かった。イギリス側に鹵獲されたテメレール級の多くが、イギリス海軍で使用されている。例としてアブキール湾から生還し、1800年のマルタ護送船団の海戦 でイギリスに捕獲された「ジェネルー (フランス語版 ) (Généreux / HMS Genereux )」、処女航海初日の1798年4月21日にラ・ド・サン (フランス語版 ) 海峡で英国戦列艦「マーズ (HMS Mars )」に拿捕された「エルキュール (英語版 ) (Hercule )」がある。
艦型
外形寸法
船体は全長172フィート (55.87 m )、 全幅44フィート6インチ (14.90 m)、吃水は船体中央部で22フィート (7.26 m) 。排水量 は2,900 トン 。
帆走機構
3本マストの全装帆船 で各檣には3段の横帆を備え、風の条件が良いときにはさらに3枚のステイセイル(ジブ)とバウスプリットセイルを張ることができた。すべの帆の面積の合計は2,485 m2 である。
乗組員
1786年1月1日時点の記録によると[ 5] 、戦時の乗員数は705名(平時は495名)と規定されており、その内訳は士官 12名、士官見習7名、下士官 55名、砲手(兼海兵 )42名、航海士 6名、船員 404名、水兵(海兵や戦列歩兵 )、船員見習50名、専門職(船医、調理師、等)16名、士官の従者13名、であった。
第一共和政 から第一帝政 期には規定が改められ、士官が13名(艦長 、副長、海尉 4名、少尉7名)に増員され、戦時の乗員数は706名(平時562名)となった。
武装
テメレール級は2段の砲列甲板 を持ち、下方の甲板には36ポンド砲 (フランス語版 ) が両舷に14門ずつ装備されていた。この砲は全長3.274m、重量3,520kgで900kgの砲車 に載せられていた。1門の砲を操作するのに15人の人員が必要だった。砲弾の重量は17.62kgで装填には約8分を要し、最大射程は3,700mだった。
上方の甲板には18ポンド砲 (フランス語版 ) が両舷に15門ずつ装備されていた。2つの砲列甲板の高さは1.75mで、士官 の個室のある最後部を除く船体の多くを占めていた。
船尾楼甲板 には8ポンド砲16門が配置されていた。その後、砲はカロネード砲 へと徐々に更新され、砲の配置も何度か変更された。1788年には4門の36ポンド砲が追加された。
帝政期以降、残存していたテメレール級は武装の更新が行われ、船尾楼の14門の8ポンド砲が12門のカロネード砲と2門の12ポンド砲に置き換えられ、上部甲板の18ポンド砲が36ポンド砲に変更された。しかし、これらの数字は艦に搭載できた砲の最大値であり、実戦では砲や砲手の不足により、これより低い数値で運用されていた。
同型艦
テメレール級
造船所:(B) ブレスト 、(L) ロリアン 、(R) ロシュフォール 、(T) トゥーロン
テメレール級(18隻)
艦名
造船所
進水
略歴
出典
テメレール (フランス語版 ) Téméraire
B
1782年12月17日
1801年11月、退役 1803年、解体
オーダシュー (英語版 ) Audacieux
L
1784年10月28日
1801年11月、退役 1803年、解体
シュペールブ (フランス語版 ) Superbe
B
1784年10月28日
1795年1月30日、ブレスト沖で沈没
ジェネルー (フランス語版 ) Généreux
R
1785年6月21日
1793年8月、トゥーロン で英国海軍に拿捕(12月にフランスが奪還) 1802年2月、マルタ島 で英国海軍に再度拿捕され、英国艦 (HMS Genereux )として再就役 1816年、解体
コメルス・ド・ボルドー (フランス語版 ) Commerce de Bordeaux
T
1785年9月15日
1794年1月に「ボネ・ルージュ (Bonnet Rouge )」、2月に「ティモレオン(Timoléon )」に改名 1798年8月、ナイルの海戦 で戦没
フェルム (英語版 ) Ferme
B
1785年9月16日
1792年10月に「フォション (Phocion )」と改名する。乗員が反乱を起し脱走 1793年1月、トリニダード島 でスペイン軍に降伏し、スペイン艦となる 1808年、ラ・グアイラ で解体
フグー (フランス語版 ) Fougueux
L
1785年9月19日
1805年10月21日、トラファルガーの海戦 で英国海軍に拿捕され、10月23日に嵐により沈没
パトリヨート (英語版 ) Patriote
B
1785年10月3日
1820年5月に除籍 1821年、ハルク化 され監獄 として使用 1832年後半、解体
コメルス・ド・マルセイユ (英語版 ) Commerce de Marseille
T
1785年10月7日
1786年7月「リス (Lys )」と改名 1792年10月「トリコロール (Tricolore )」と改名 1793年8月、トゥーロンで英国海軍に拿捕され12月8日に焼却
ボレー (英語版 ) Borée
L
1785年11月17日
1793年1月、退役 1794年4月にフリゲート に改造され「サ・イラ (Ça Ira )」と改名。6月に「アグリコラ (Agricola )」と改名され再就役 1796年、ハルク化され病院 となる 1803年、解体
オリオン (英語版 ) Orion
R
1787年4月18日
1793年11月に「ミュシウス・スケヴォラ (Mucius Scévola )」、次いで「ミュシウス (Mucius )」と改名 1803年、解体
レオパール (英語版 ) Léopard
B
1787年6月22日
1793年2月17日、カリャリ 沖で座礁し焼却処分
アントルプレナン (英語版 ) Entreprenant
L
1787年10月11日
1803年、解体
アンペテュ (英語版 ) Impétueux
R
1787年10月25日
1794年6月1日、プレリアルの海戦 で英軍に拿捕 1794年8月24日、ポーツマス で火災により喪失
アメリカ (フランス語版 ) America
B
1788年5月21日
1794年6月1日、プレリアルの海戦で英軍に拿捕。「インペテュー (HMS Impetueux )」と改名され再就役 1813年、解体
アポロン (英語版 ) Apollon
R
1788年5月21日
1794年2月「ガスパラン (Gasparin )」と改名するが、5月に「アポロン」に戻る 1797年12月「マルソー (Marceau )」と改名 1798年、解体
デュゲイ=トルーアン (英語版 ) Duguay-Trouin
B
1788年10月30日
1893年12月、トゥーロン攻囲戦 で炎上し沈没
アキロン (フランス語版 ) Aquilon
R
1789年6月8日
1798年、エジプト遠征 に参加。ナイルの海戦で英国海軍に拿捕され「アブキール (HMS Aboukir )」と改名され再就役 1802年、プリマス で解体
デュケーヌ級
造船所:(B) ブレスト、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロン
デュケーヌ級(40隻)
艦名
造船所
進水
略歴
出典
デュケーヌ (フランス語版 ) Duquesne
T
1788年9月20日
1803年6月24日、英国海軍に拿捕され英国艦 (HMS Duquesne ) として再就役 1804年、モラント諸島 で座礁 1805年、サルベージされ英国で解体
トゥールヴィル (フランス語版 ) Tourville
L
1788年12月16日
1841年、ブレストで解体
ジュピテー (英語版 ) Jupiter
B
1789年11月4日
1794年3月「モンタニャール (Montagnard )」と改名 1795年5月18日「デモクラート (Démocrate )」と改名されるが、30日に元の「ジュピテー」に戻る 1797年2月「バタヴ (Batave )」と改名 1807年、ブレストで解体
エオール (フランス語版 ) Éole
L
1789年11月15日
1806年、マルティニーク 沖で座礁・放棄 1816年、ボルチモア で解体
ヴァンジュール (英語版 ) Vengeur
B
1789年12月16日
1792年12月12日、アジャクシオ 沖で座礁し放棄 1793年6月8日、沈没
テゼー (フランス語版 ) Thésée
R
1790年4月14日
1793年1月7日「レボリュシオン(Révolution )」と改名1803年2月5日「フィニステール (Finisterre )」と改名 1816年、解体
シピオン (英語版 ) Scipion
T
1790年7月30日
1793年8月、トゥーロンで英国に鹵獲され、英軍指揮下でフランス王党派の艦となる 1793年11月28日、リヴォルノ にて焼失
ジャン・バール (フランス語版 ) Jean Bart
L
1790年11月7日
1809年4月24日、バスク泊地の海戦 (英語版 ) で座礁 1809年4月26日、英国軍により焼却
シュフラン Suffren
B
1791年5月31日
1795年5月「ルドゥターブル (Redoutable )」と改名 1805年10月21日、トラファルガーの海戦 に参加。ホレーショ・ネルソン を狙撃した弾丸は本艦より放たれた。10月22日、英軍に鹵獲されるが、2日後に沈没
ピュロス (フランス語版 ) Pyrrhus
R
1791年8月13日
1793年「モンブラン (Mont-Blanc )」に改名 1794年「トレンテ=エ=ウン・メイ (Trente-et-un Mai )[ 注釈 2] 」に改名 1795年「レピュブリカン (Républicain )」に改名 1796年、艦名を「モンブラン」に戻す 1805年11月4日、オルテガル岬の海戦 で拿捕され、英軍で再就役 (HMS Mont Blanc ) 1811年、火薬運搬船となる 1819年、売却
テミストクレ (英語版 ) Thémistocle
B
1791年9月12日
1793年12月18日、トゥーロン攻囲戦 で英軍によって焼却
トラジャン (英語版 ) Trajan
L
1792年1月24日
1797年「ゴーロワ (Gaulois )」に改名 1805年、解体
ティーグル Tigre
B
1793年5月8日
1795年6月23日、グロワ島の海戦 で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Tigre ) 1817年6月、解体
ポンペー (フランス語版 ) Pompée
T
1793年5月28日
1793年、トゥーロン攻囲戦で英軍に拿捕され再就役 (HMS Pompee )。ポンペイ級 を開発の基礎となる 1816年、ポーツマス でハルク化され監獄となる 1817年1月、解体
ティラニサイド (フランス語版 ) Tyrannicide
L
1793年6月28日
1800年8月「ドゼー (Desaix )」と改名 1802年1月、サン=ドマング 近海で座礁
[ 29]
ネストール (フランス語版 ) Nestor
B
1793年7月22日
1797年「シザルパン (Cisalpin )」に改名 1803年「アキロン (Aquilon )」に改名 1809年4月12日、バスク泊地の海戦で英軍に鹵獲され焼却
[ 30]
ジュマップ (英語版 ) Jemmapes
R
1794年1月22日
1830年、解体
バラ (英語版 ) Barra
B
1794年3月23日
1795年「ペガーズ (Pégase )」と改名 1797年「オシェ (Hoche )」と改名 1798年10月12日、英軍に拿捕され「ドニゴール (HMS Donegal )」と改名され再就役 1845年5月、解体
ドロワ・ドローム (フランス語版 ) Droits de l'Homme
L
1794年3月24日
1797年1月13日の海戦 で座礁・放棄
[ 32]
リヨン Lion
R
1794年4月29日
1794年「マラー (Marat )」に改名 1795年5月「フォルミダーブル (Formidable )」に改名 1795年6月23日、グロワ島の海戦で英国海軍に拿捕。「べライル (HMS Belleisle )」と改名され再就役 1814年、解体
ワティニー (英語版 ) Wattignies
L
1794年10月8日
1808年7月、フリュート に改造 1808年9月21日、解体
カサール (英語版 ) Cassard
L
1795年5月8日
1798年「ディ・ウート (Dix-août )」と改名 1803年2月「ブラーヴ (Brave )」と改名 1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦 (英語版 ) で英国海軍に拿捕され、4月10日に沈没
ジャン=ジャック・ルソー (英語版 ) Jean-Jacques Rousseau
T
1795年7月21日
1802年12月2日「マレンゴ (Marengo )」と改名1806年3月13日の海戦 (英語版 ) で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Marengo ) 1809年、ハルク化され監獄となる 1816年、解体
ヴィアラ (英語版 ) Viala
L
1795年9月28日
1795年「ヴォルテール (Voltaire )」次いで「コンスティチュシオン (Constitution )」と改名 1803年「ジュピテー (Jupiter )」と改名 1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦でイギリスに拿捕され「メイダ (HMS Maida )」と改名され再就役 1814年、解体のため売却
エルキュール (フランス語版 ) Hercule
L
1797年10月5日
1798年4月21日、ラ・ド・サンの海戦 で英国海軍に拿捕され「ハーキュリー (HMS Hercule )」と改名し再就役 1810年12月、解体
スパルシャット (フランス語版 ) Spartiate
T
1797年11月24日
1798年8月2日、ナイルの海戦 で英軍に拿捕され「スパルティエイト (HMS Spartiate ) 」と改名され再就役 1842年8月、ハルク化され作業船に 1857年5月30日、解体
カトルズ・ジュイエ (英語版 ) Quatorze Juillet
L
1798年2月1日
1798年4月、就役前に火災で喪失
アルゴノート (フランス語版 ) Argonaute
L
1798年12月22日
1805年、スペイン海軍 へ譲渡され「アルガウノータ (Argaunota )」と改名(就役せず)
[ 34]
ユニヨン (英語版 ) Union
L
1799年8月1日
1803年「ディオメーデ (Diomède )」と改名 1806年2月6日、サン・ドミンゴの海戦で座礁。2月8日に英軍によって焼却
デュゲイ=トルーアン (フランス語版 ) Duguay-Trouin
R
1800年3月24日
1805年11月3日、オルテガル岬の海戦で英国海軍に拿捕され「インプラカブル (HMS Implacable )」と改名・再就役 1943年「フードロイヤント (HMS Foudroyant )」と改名 1949年12月20日、海没処分
エーグル (フランス語版 ) Aigle
R
1800年7月6日
1805年10月21日、トラファルガーの海戦で英国海軍に拿捕。翌日に乗組員により奪回されるが、嵐に遭い沈没
[ 36]
シピオン (ii) (フランス語版 ) Scipion
L
1801年3月29日
1805年11月3日、オルテガル岬の海戦で英国海軍に拿捕され再就役 (HMS Scipion ) 1819年1月、解体
ル・エロー (フランス語版 ) La Héros
L
1801年5月10日
1801年、サン=ドマング遠征 (フランス語版 ) に参加し、トゥーサン・ルーヴェルチュール をフランスに護送した 1808年6月14日、カディスでスペイン軍により拿捕され「エロエ (Heroe )」と改名され再就役 1845年、フェロル で解体
ブルートゥス (英語版 ) Brutus
L
1803年1月24日
就役前に「アンペテュ (Impétueux )」と改名 1806年8月19日、嵐に遭遇して難破し、9月14日にチェサピーク湾 に漂着後、英軍によって焼却
マニャニム (フランス語版 ) Magnanime
R
1803年8月13日
1820年、解体
リヨン (ii) (フランス語版 ) Lion
R
1804年1月12日
「グロリュー (Glorieux )」次いで「カサール (Cassard )」と改名(時期不詳) 1809年10月26日、マグローヌの海戦 (英語版 ) の際にセット 付近で座礁し、拿捕を避けるため乗員の手で焼却
[ 37]
アシレ (フランス語版 ) Achille
R
1804年11月17日
1805年10月22日、トラファルガーの海戦で戦没
レグルス (英語版 ) Régulus
L
1805年4月12日
1814年4月7日、拿捕を避けるためメシェ=シュル=ジロンド 近海で船員の手で焼却
[ 38]
クラジュー (フランス語版 ) Courageux
L
1806年2月3日
1827年、除籍 1831年、解体
アジャクス (フランス語版 ) Ajax
R
1806年6月18日
1816年、退役 1818年、ハルク化され監獄として使用
ドーポール (英語版 ) D'Hautpoul
L
1807年9月2日
1809年4月19日、カリブ海 で英国海軍に拿捕。「アバクロンビー (HMS Abercrombie )」と改名され再就役 1817年4月30日、売却
シュフラン級
1801年、海軍大臣ピエール=アレクサンドル=ローラン・フォルフェ (フランス語版 ) の命令によりロリアン で建造された2隻の改良型テメレール級。全長が標準的なテメレール級より65cm短縮されている。このタイプの艦は1801年10月にフォルフェが大臣を辞任して以降は建造はされず、ブレストで開始されていた3番艦「パシフィカトゥール (Pacificateue )」の建造も1804年に中止された。
艦名
進水
略歴
シュフラン (英語版 ) Suffren
1803年9月17日
1815年12月9日、除籍 1816年、ハルク化(監獄) 1823年、解体
アルジェジラ (フランス語版 ) Algésiras
1804年7月8日
1805年、トラファルガーの海戦 で拿捕されるが奪回され、カディス に帰還 1808年6月、カディスでスペインに拿捕される 1826年、解体
カサール級
主武装を18ポンド砲から24ポンド砲に換装することを目的に設計に変更が加えられた艦。1793年~1794年にかけてブレスト で2隻が起工された。設計に変更が加えられ、標準的なテメレール級よりも全長で約60cm、全幅で約15cmの大型化がなされた。他のテメレール級の艦と異なり、建造は時間をかけて進められ、起工から進水までに約10年が費やされた。この設計改変は不評で、1816年までに24ポンド砲は18ポンド砲に変更され、同じ設計の艦は建造されなかった。
艦名
進水
略歴
出典
カサール (英語版 ) Cassard
1803年9月24日
1793年「リヨン (Lion )」として起工 1795年「グロリュー (Glorieux )」と改名 1798年「カサール」と改名 1818年、ハルク化(石炭庫) 1833年、解体
ヴェテラン (フランス語版 ) Vétéran
1803年7月18日
1794年「マニャニム (Magnanime )」として起工 建造途中の1798年5月「カトルズ・ジュイエ (Quatorze Juillet )」と改名 1802年「ヴェテラン」と改名 1833年、退役 1842年、解体
プリュトン級 / アルバネ級
1803年に起工した「プリュトン」から始まる縮小型テメレール級で、公式に小型モデル(petit modèle)と呼ばれた。サネーは、主要なフランスの造船所よりも水深の浅い、フランス支配下の近隣諸国や、フランス帝国に吸収された外国の港(アンヴェルス など)の造船所で建造するためにこれを設計し、船体は垂線間長54.12m、全長54.89m、全幅14.30mに縮小され、吃水も約23cm低くなった。
造船所:(A) アンヴェルス、(Am) アムステルダム 、(F) フレサング 、(G) ジェノワ 、(Ro) ロッテルダム 、(T) トゥーロン、(V) ヴェニス
プリュトン級
艦名
造船所
進水
略歴
出典
プリュトン (フランス語版 ) Pluton
T
1805年1月18日
1808年6月、カディス でスペイン海軍に拿捕される 1810年「モンタニェス (Montañés )」と改名 1814年または1816年、解体
[ 43]
ボレー (フランス語版 ) Borée
T
1805年6月27日
1827年、除籍・解体
ジェノワ (英語版 ) Génois
G
1805年8月17日
1821年8月、トゥーロンで予備艦となり、12月までに解体された
シャルルマーニュ (英語版 ) Charlemagne
A
1807年4月8日
1814年8月30日、パリ条約 によりオランダ海軍 に譲渡され「ナッサウ (Nassau )」と改名され再就役 1824年、解体
コメルス・ド・リヨン (英語版 ) Commerce de Lyon
A
1807年4月9日
1819年2月23日、予備艦 1830年、解体
アンヴェルソワ (英語版 ) Anversois
A
1807年6月7日
1814年8月「エオール (Éole )」と改名 1815年3月「アンヴェルソワ」戻され、8月に再び「エオール」となる 1818年、解体
デュゲクラン (英語版 ) Duguesclin
A
1807年6月20日
1820年1月11日、解体
セザール (英語版 ) César
A
1807年6月21日
1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「プリンス・フレデリック (Prins Frederik )」と改名され再就役 1814年、解体
ヴィル・ド・ベルリン (英語版 ) Ville de Berlin
A
1807年9月6日
1804年4月、「テゼー (Thésée )」として起工 1807年7月2日「ヴィル・ド・ベルリン」と改名 1814年「アトラス (Atlas )」と改名 1819年2月23日、除籍
オーダシューAudacieux
A
1807年9月20日
建造中の艦名は「プルスタック (Pulstuck )」 1809年、「プルトゥスク (Pultusk )」と改名 1814年、オランダ海軍に譲渡され「ホラント (Holland )」と改名され再就役 1817年、解体
イリュストルIllustre
A
1807年
建造中の艦名は「ダンツィヒ (Dantzick )」 1814年、王政復古 により「アシル (Achille )」と改名 1815年、百日天下 の際に「ダンツィヒ」に戻されるが、王政府により再度「アシル」と改名 1816年、除籍
ロワイヤル=オランデ (英語版 ) Royal-Hollandais
F
1812年2月14日
1809年、ワルヘレン戦役 (英語版 ) でフレサングがイギリスに占領された際に接収 船体はイングランドに運ばれて組み立てられ、1812年「チャタム (HMS Chatham )」として進水 1817年9月10日、売却
アルバネ級
アルバネ (英語版 ) Albanais
A
1808年10月2日
1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「バタヴィア (Batavier )」と改名され再就役 1817年、解体
ブレスラウ (英語版 ) Breslaw
G
1808年5月3日
1806年「シュペルーブ (Superbe ) 」として起工したが進水直前に「ブレスラウ」に改名 1836年、除籍
ダルマット (英語版 ) Dalmate
A
1808年8月21日
1814年、王政復古により「エクトル (Hector )」と改名 1815年、百日天下の際に「ダルマット」に戻されるが、王政府により再度「エクトル」と改名 1819年、除籍
[ 49]
リヴォリ (フランス語版 ) Rivoli
V
1810年9月6日
1812年2月22日、ピランの海戦 (英語版 ) で英国海軍に拿捕され[ 50] 英国艦 (HMS Rivoli ) として再就役 1819年、解体
モン・サン=ベルナルド (英語版 ) Mont Saint-Bernard
V
1811年6月9日
1814年4月20日、オーストリア軍により焼却
レジェネラトゥール (英語版 ) Régénérateur
V
1811年7月
1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍 により接収・再就役 1823年、フリゲート に改造され「ベローナ (Bellona )」と改名 1831年、解体
カスティリオネ (英語版 ) Castiglione
V
1812年8月2日
1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍に譲渡 1814年9月14日、火災により喪失
ロワイヤル・イタリアン (英語版 ) Royal Italien
V
1812年8月15日
1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍に譲渡され「レアーレ・イタリアーノ (Reale Italiano )」と改名され再就役 1825年、フリゲートに改造 1838年、解体
ピエ・アン (英語版 ) Piet Hein
Ro
1812年8月15日
1814年8月1日、オランダ海軍に譲渡され「アドミラール・ピート・ハイン (Admiraal Piet Hein )」と改名され再就役 1819年、解体
クーロンヌ (英語版 ) Couronne
Am
1813年
1814年8月1日、艤装前の状態でオランダ海軍に譲渡され「ウィレム1世 (Willem de Eerste )」と改名。オランダ軍によって竣工し就役 1829年、退役・除籍
モンテベッロ (英語版 ) Montebello
V
1815年11月7日
1814年4月20日、ヴェニスが陥落した際にオーストリア海軍 により接収 1815年「チェーザレ (Cesare )」と命名され進水 1824 - 1835年の間に除籍
オーダシュー (英語版 ) Audacieux
Am
1816年10月5日
1814年8月1日、未完成の状態でオランダ海軍に譲渡され「コアリツィー (Coalitie )」と改名。オランダ軍によって完成し「ヴァッセナール (Wassenaar )」と改名され進水・就役 1827年、スコールル (オランダ語版 ) 沿岸で座礁
ポリフェーム (英語版 ) Polyphème
Am
1817年7月
1814年8月1日、未完成の状態でオランダ海軍に譲渡され「ホラント (Holland )」と改名。オランダ軍によって完成され、進水・就役 1832年、解体
モンテノッテMontenotte
V
1815年
ロンバルド=ヴェネト王国 に譲渡
シトワイヤンCitoyen
T
進水せず
1812年、建造中止
アルコル / Arcole ロンバルド / Lombardo セメリング / Semmering
V
未着工
ダニューブ級
造船所:(A) アンヴェルス 、(B) ブレスト、(C) シェルブール 、(G) ジェーヌ 、(L) ロリアン、(R) ロシュフォール、(T) トゥーロ
ダニューブ級(25隻)
艦名
造船所
進水
略歴
出典
ダニューブ (英語版 ) Danube
T
1808年12月21日
1827年、退役
ポロネイ (フランス語版 ) Polonais
L
1808年5月28日
1814年4月、王政復古 により「リス (Lys )」と改名 1815年3月~7月、百日天下 の際「ポロネイ」に戻り、ナポレオン 没落後に再度「リス」となる 1822年、ハルク化され倉庫 1825年、解体
トネール (英語版 ) Tonnerre
B
1808年6月8日
1794年9月22日、起工 1795年「カトルズ・ジュイエ (Quatorze Juillet)」と改名 1808年、名を「トネール」に戻されて進水 1809年4月12日、バスク泊地の海戦 (英語版 ) で座礁し、拿捕を避けるため乗員の手で焼却
[ 56]
トリオンファン (英語版 ) Triomphant
R
1809年3月31日
1828年、廃船
ユルム (フランス語版 ) Ulm
R
1809年5月25日
1828年、除籍
ゴリマン (英語版 ) Golymin
L
1809年12月8日
1804年6月4日、「アンフレクシブル (Inflexible )」として起工 1809年「ゴリマン」と改名され進水 1814年3月23日、グレ・ド・ブレスト (フランス語版 ) で難破
ネストール (英語版 ) Nestor
B
1810年5月21日
1865年、解体
マレンゴ (英語版 ) Marengo
B
1810年10月12日
1858年7月21日、除籍 1860~1865年、ハルク化され監獄として使用 11866年「プリュトン (Pluton )」と改名 1875年、解体
トリダン (英語版 ) Trident
T
1811年6月9日
1854年、輸送船 1858年、ハルク化され兵舎 1873年、解体
トラジャン (英語版 ) Trajan
A
1811年8月15日
1829年、解体
アゲムノン (フランス語版 ) Agamemnon
G
1812年2月23日
1823年、レイジー 化され「アンフィトリテ (Amphitrite )」と改名 1829年、退役するがアルジェリア侵攻 (英語版 ) のため翌年に再就役 1830年1月、退役 1836年、廃船
ゴーロワ (英語版 ) Gaulois
A
1812年4月14日
1827年、除籍 1831年、解体
ロミュラス (フランス語版 ) Romulus
T
1812年5月31日
1821年、レイジー化され「ゲリエール (Guerrière )」と改名 1830年、解体
ヴィル・ド・マルセイユ (フランス語版 ) Ville de Marseille
T
1812年8月15日
1858年、兵舎ハルク 1877年、解体
シピオン (フランス語版 ) Scipion
G
1813年9月5日
1846年、除籍
オリオン (英語版 ) Orion
B
1813年10月9日
1829 - 1839:海軍兵学校 練習艦 1841年、解体
デュゲイ=トルーアン (英語版 ) Duguay-Trouin
C
1813年11月10日
1824年、除籍
コロス (英語版 ) Colosse
T
1813年12月5日
1821年、レイジー化され「パラス (Pallas )」と改名 1827年、損傷 1840年、除籍され解体
シュペールブ (フランス語版 ) Superbe
A
1814年7月5日
1833年12月15日、難破
ブリアン (英語版 ) Brllant
G
1815年4月18日
1814年4月18日、英国海軍に接収され、英国艦「ジェノア (HMS Genoa )」として進水・就役 1838年1月、プリマス で解体
エルキュール (英語版 ) Hercule
T
1815年5月26日
1815年7月「プロヴァンス (Provence )」と改名 1855年12月31日、除籍され病院ハルク 1881年、解体
デュク・ド・ベリー (英語版 ) Duc de Berry
R
1818年6月18日
進水前に「グロリュー (Glorieux )」と改名 1831 - 1834年、58門フリゲート に改造され「ミネルヴ (Minerve )」と改名 1865年「アベ・ヴラーソ (Aber Wrac'h )」と改名 1853年、廃船 1874年、解体
ジャン・バール (英語版 ) Jean Bart
L
1820年8月15日
1833年、解体
トリトン (英語版 ) Triton
R
1823年9月22日
1824年1月「ヴェニシアン (Vénitien )」として起工 1823年「トリトン」と改名され進水 1870年代までに廃船
ジェネルー (英語版 ) Généreux
C
1831年9月23日
1851年、監獄ハルク化 1865年、解体
1808年~1813年にかけて、当時フランスの傀儡政権 下にあったナポリ王国 で、ダニューブ級の設計を流用した船がカステッランマーレ・ディ・スタービア で建造された。3隻が発注され、2隻が完成・就役したが、1813年11月にナポリ王国がナポレオン陣営を離脱したため3隻目は起工されなかった。
艦名
進水
略歴
出典
カプリ (イタリア語版 ) Capri
1810年8月21日
1847年、退役・解体
ジョアッキーノ (イタリア語版 ) Gioacchino
1812年8月1日
1820年5月10日、火災により損壊 1821年、解体のため売却
ギャラリー
パトリョート
カサール
アシーレ
ボレー (1805)
リヴォリ
トリオンファン (1809)
ヴィル・ド・マルセイユ
シュペールブ (1814)
脚注
注釈
^ 18世紀の海軍史を専門とするフランスの歴史家[ 3] 。
^ 「5月31日」の意
出典
^ “Michèle Battesti - Babelio ”. Babelio. 2023年6月14日 閲覧。
^ “La bataille d'Aboukir. Ses implications stratégiques ” (フランス語). napoleon.org . 2023年6月15日 閲覧。
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^ “Les bâtiments ayant porté le nom d'Argonaute ”. www.netmarine.net . 2023年7月23日 閲覧。
^ Adkins, Roy (2011), Trafalgar: The Biography of a Battle , Little, Brown Book Group, p. 88 , ISBN 978-1-4055-1344-9
^ Fonds marine : Campagnes (opérations ; divisions et stations navales ; missions diverses) , t. 1, 2000 (lire en ligne ) , p. 313 à 623
^ “1814 - L'agonie du vaisseau le Régulus au large de Meschers (...) - Histoire Passion - Saintonge Aunis Angoumois ”. www.histoirepassion.eu . 2023年7月25日 閲覧。
^ Gillet, Jean-Claude (2010). La Marine impériale : Le grand rêve de Napoléon . Bernard Giovanangeli Éditeur. p. 308. ISBN 978-2-7587-0062-3
^ Quintin, Danielle; Quintin, Bernard (2003) (フランス語). Dictionnaire des capitaines de Vaisseau de Napoléon . S.P.M.. p. 84. ISBN 2-901952-42-9
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参考文献
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James, William (2002). The Naval History of Great Britain, Volume 4, 1805–1807 . Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-908-5
Roche, Jean-Michel (2005). Dictionnaire des bâtiments de la flotte de guerre française de Colbert à nos jours (Vol 1: 1671 – 1870) . ISBN 978-2-9525917-0-6 . OCLC 165892922
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Winfield, Rif & Roberts, Stephen S. (2017). French Warships in the Age of Sail 1626–1786: Design, Construction, Careers and Fates . Barnsley, UK: Seaforth Publishing. ISBN 978-1-4738-9351-1
関連項目
外部リンク