歴史家フロルスは、カラリスをウルブス・ウルビヌム(urbs urbinum)またはサルデーニャの首都と呼んだ。彼はウルブス・ウルビヌムがグラックス兄弟によって攻略され厳しく懲罰を加えられたと描いている(ii. 6. § 35)。しかしこの文書はすっかりリウィウスによって与えられた記事と食い違っている。サルデーニャでのグラックスの戦争は、都市がローマへの忠誠を表したもので、反乱は山岳地帯の部族を封じ込めたのである(xli. 6, 12, 17)。ユリウス・カエサルとポンペイウスが争ったローマ内戦では、カラリス市民は初めカエサルに賛同した。その後すぐサルデーニャ諸都市もそれにならった(Caes. B.C. i. 30)。カエサル自身はアフリカ大陸からの帰還の途中、自身の船団をこの地に寄港させた(Hirt. B. Afr. 98.)。わずか数年後、サルデーニャがポンペイウスの部下メナスの手に陥落した後、カラリスはどんな抵抗運動も示す島唯一の都市となった。しかし、短期間の包囲戦で陥落した(カッシウス・ディオ xlviii. 30.)。
ローマ帝国時代に歴史上何が起きたか記載がないが、引き続きカラリスは島の首都であったとみなされる。そしてローマ植民地とならなかったことで、住民はローマ市民の権利を獲得した(大プリニウス iii. 7. s. 13; ストラボン v. p. 224; ポンポニウス・メラ, ii. 7; アントニーニ・イティネラリウム pp. 80, 81, 82, )。西ローマ帝国滅亡後、サルデーニャ島の残りと共に、カラリスはヴァンダル族の手に陥落した。しかし、中世を通じてその重要性は維持されたことがわかっている。
クラウディアヌスは、岬または土地の先端へ向かって都市の長さが伸びたとして古代都市について記述している。都市の突出は、カラリス港を敵から隠すためにあった。大規模艦船のために良い停泊地が好まれた。そのうえ、唯一の良く隠された道路が固定され、スタニョ・ディ・カリャリ(Stagno di Cagliari)と呼ばれる大規模塩湖または潟がカラリスと接続した。塩湖は狭い地峡で湾と行き来ができ、カラリスの内港または係船地として古代から用いられてきたとクラウディアヌスは記述している(クラウディアヌス. B. Gild. 520-24.)。カラリスと接続した岬は明らかに、プトレマイオス(Κάραλις πόλις καὶ ἄκρα)によって注目されていた。しかし、大プリニウスのカラリタヌム・プロモントリウム(Caralitanum Promontorium)は、先端(現在のカルボナーラ岬。カリャリ湾の東の境となっている)以外の土地を記述せず、島全体の南東端にあったとする。現在はカヴォリ島と呼ばれる小さなフィカリア島のことだろう(大プリニウス、 l. c.; Ptol. iii. 3. § 8)。
18世紀終盤のフランス革命以後、フランスは地中海の要所であるカリャリを征服しようとした。フランス軍はポエットの海岸に上陸し、カリャリへ進軍した。しかしサルデーニャ軍がフランス軍を退け、革命軍に対して王国の防衛を決定づけた。カリャリの人々は、町をフランスから守った見返りとしてサヴォイア家からいくらかの権利を獲得しようと期待した。例えば、カリャリの貴族は王国議会のサルデーニャ代表議員の地位を望んだ。王家がそれらの要求全てを拒むと、カリャリ住民はサヴォイア家に対して蜂起し、ピエモンテからやってきた王家を代表する官僚や出身者を追放した。この暴動は、4月最後の週にディエ・デ・サ・サルディーニャ("Die de sa Sardigna"、サルデーニャの日)としてカリャリで祝われてきた。しかし、サヴォイア家は事実上の自治支配後にカリャリ支配を奪還した。
カリャリ大聖堂(Cattedrale di Santa Maria di Castello) - 正式名称はサンタ・マリア・ディ・カステッロ大聖堂。聖母の被昇天と聖チェチーリアへ献堂。カリャリ大司教座が置かれる。1930年代の修復で、古いバロック様式のファサードが中世ピサ様式のファサードへ変わり、さらに原始の教会が造られた当時の同種の建物となった。鐘楼は原型のままである。内部は本堂1つと2つの側廊をもち、ピサ大聖堂のために彫られた12世紀の説教壇(後にカリャリに寄進された)がある[2]。納骨堂には、サン・サトゥルノ教会で見つかった殉教者の遺物が保管されている。聖堂近くは州政府庁舎である(1900年以前はサルデーニャ知事邸宅であった)。カステッロ地区には、サルデーニャ考古学博物館もある。先史時代のヌラーゲ文明の発掘物を所蔵する最大で重要なものである。カステッロ地区のびっしり詰まった歴史ある小路には、多くの職人の工房が並ぶ。
サン・サトゥルニーノ教会(Basilica di San Saturnino) - サルデーニャで最も重要な古キリスト教建築の一つ。ディオクレティアヌス帝時代の迫害で殉教した、聖カリャリのサトゥルニヌスへ献堂した。5世紀に建てられた。原型の建物内の中央部分が残り、2つのアームのあるドーム(本堂一つと側廊2つ)が加えられた。
サン・ルキフェロ教会(Chiesa di San Lucifero) - 17世紀。カリャリ司教であった聖ルキフェロへ献堂。地下には古キリスト教時代の納骨堂がある。古い円柱と彫刻された部分(近くのネクロポリスで見つかった)があるバロック様式ファサードを持つ
ノストラ・シニョーラ・ディ・ボナーリア教会(Santuario di Nostra Signora di Bonaria) - アラゴン王国支配時代の1324年から1329年に建てられた。当時城で攻城戦が行われ、ピサ軍が教会に避難していた。ファサードの小さなゴシック出入り口、内部にある木造の聖母像(スペイン船から投げ落とされ、ボナーリア丘の麓へ流れ着いた)がある。付属修道院の回廊には、海事博物館がある。ローマ教皇ピウス10世によって、ボナーリアの聖母のバシリカへと昇格した。2008年9月7日、現教皇ベネディクト16世が教会を訪問した。
その他に古いカリャリ市街の名残とみなされるものが市内で見られる。最も目をひくのは、岩の塊を彫り抜いたローマ時代の円形演舞場(カリャリの典型的な白石灰岩で建てられた)、そして水道橋である。水道橋は新鮮な水が乏しい市への重要な掘り出し物であった。そこには莫大なまでに広い古代の水槽もある。小さな円形の神殿の遺跡と、現代のカリャリ外の丘にはおびただしい数の埋葬地があり、これは古代カリャリのネクロポリスであったことを示す(Smyth's Sardinia, pp. 206, 215; Valery, Voyage en Sardaigne, c. 57.)。円形演舞場は、いまだ野外オペラやコンサートが夏期に開催されている。