ティーヴィーラーク
ティーヴィーラーク(T. V. Lark、1957年 - 1975年)は、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、種牡馬。1961年のワシントンDCインターナショナルに優勝し、同年のアメリカ最優秀芝牡馬に選出された。また種牡馬としても実績が高く、1974年のアメリカリーディングサイアーにも選出された。 経歴
カリフォルニア州の生産者、ウォルター・D・ルーカスの生産したサラブレッドの牡馬である。1958年にデルマーのイヤリングセールに上場され、そこでチェイス・マッコイに1万ドルで落札され、同氏のCRマックステーブルのもとで競走馬となった[1]。 ティーヴィーラークはウィリアム・モルター調教師に預けられて、2歳時の1959年にデビューした。2歳時はアーリントンフューチュリティ(アーリントンパーク・6ハロン)に優勝[3]、また年末のカリフォルニアブリーダーズトライアルステークス(サンタアニタパーク・7ハロン)では2着馬ノーブルヌーアを3/4馬身差で破って勝利している[4]。 3歳になった1960年、4月2日に調教師のモルターが心臓発作のために急死し、それまで厩務員であったポール・パーカーが新たにティーヴィーラークの調教師となった[1]。3歳シーズン前半のティーヴィーラークは善戦続きで勝ち星に恵まれなかったが、後半はアーリントンクラシックステークス(アーリントンパーク・8ハロン)、アメリカンダービー(アーリントンパーク・9ハロン)、ワシントンパークハンデキャップ(アーリントンパーク・8ハロン)と連勝を遂げた。さらに、初めての芝競走となったユナイテッドネーションズハンデキャップでは同年のプリークネスステークス優勝馬バリーアークや、古豪ソードダンサーらを破って優勝している[5]。 4歳時はハリウッドゴールドカップなどに優勝している[1]。この年最大の勝ち星は当時の最強馬ケルソを破ったワシントンDCインターナショナル(ローレルパーク・芝12ハロン)で、この勝利によりティーヴィーラークは同年の最優秀芝牡馬に選出された[1]。その後5歳まで競走を続けたが、5歳時はフィラデルフィアターフハンデキャップ(アトランティックシティ・芝8.5ハロン)で勝つ以外は善戦に留まった。 種牡馬入り後ティーヴィーラークは1961年9月にプレストン・マッデンが代表するシンジケートに60万ドルで売却され、競走馬引退後にそのマッデンの持つケンタッキー州のハンバーグプレイス牧場に種牡馬として繋養された。アメリカジョッキークラブの調べによれば、ティーヴィーラークは生涯で383頭の産駒を出し、うち248頭が勝ち上がり、53頭がステークス競走勝ち馬になったとある[1]。種牡馬として継続して活躍馬を送り出し、1974年にはアメリカリーディングサイアーの座に輝いている[1]。以下はおもな産駒。
1975年、ティーヴィーラークは漏出性出血のため死亡、18歳であった[1]。遺骸はハンバーグプレイス牧場に埋葬された。 血統表
脚注出典
|
Portal di Ensiklopedia Dunia