アイルランド教会はこういった文書や初期の批評を入手して『バートラム』の作者を見抜き(マチュリーンは戯曲の収益を受け取るためペンネームを捨てていた)、その後マチューリンが聖職者として昇進するのを妨害した。妻と4人の子どもを執筆活動で養わねばならなくなり(牧師の給料は年80-90ポンドであるのに対し、『バートラム』では1000ポンド稼いでいた)、一連の戯曲の上演に失敗した後は、劇作家と小説家を掛け持ちするようになった。小説は『放浪者メルモス』に加え、アイルランドの題材にまつわる数作品や"The Albigenses"というオオカミ男を扱った歴史小説などがある[1]。多種の詩についてもマチューリンの作とされているが根拠に乏しく、他の人物の作品と思われる。受賞した"Lines on the Battle of Warterloo"は1816年に「学士ジョン・シー」の名で刊行された。"The Universe"はタイトルページにマチューリンの名を載せて1821年に出版されたが、現在はほぼすべてジェームズ・ウィルスの作と考えられている[4]。
DUBLIN UNIVERSITY MAGAZINEは後に、マチューリンの性格についてこうまとめている。『狂人と言えるほどの変わり者で、相容れないものが合わさった人物だった。小説を飽くことなく読み耽っているかと思えば気品のある牧師であり、はたまたひっきりなしに踊っていて身だしなみや身振りが気取っていた。[6]
国際的な評価
1821年にフランスで戯曲『悪逆バートラム』(Bertram ou Le Pirate) が、シャルル・ノディエ、イシドール・ジュスタン・セブラン・タイラー男爵により公開された。翌年まで53日間上演し、成功を収めた。この翻案がオペラ"Il pirate"となり、さらなる成功を収めた。脚本はフェリス・ロマーニ、音楽はヴァンセンツォ・ベリーニが手がけ、初演は1827年ミラノ・スカラ座であった。ヴィクトル・ユゴーが絶賛し、アレクサンドル・デュマは自身の戯曲『アントニー』を、今作の主人公を元に書いた。"Il pirate"は出版もされ、アメリカでもたびたび上演された。
The Fatal Revenge; or, the Family of Montorio (1807)
The Wild Irish Boy (1808)
The Milesian Chief (1812)
Women; or, Pour Et Contre; a Tale (1818)
『放浪者メルモス』 Melmoth the Wanderer (1820)
The Albigenses (1824)
Leixlip Castle (1825)
戯曲
Bertram; or The Castle of St. Aldobrand (1816)
Manuel (1817)
Fredolfo (1819)
Osmyn the Renegade (published posthumously in 1830, but in rehearsal at Covent Garden in 1822)
説話集
Sermons (1819)
Five Sermons on the Errors of the Roman Catholic Church (1824)
参考文献
^ abChris Morgan, "Maturin, Charles R(obert)." in St. James Guide to Horror, Gothic, and Ghost Writers, ed. David Pringle. Detroit and New York: St. James Press, 1998. (396-97) ISBN 1558622063
^Encyclopaedia Britannica, vol. 17, Cambridge 1911, p. 903