チャールズ・タルボット (初代タルボット男爵)
初代タルボット男爵チャールズ・タルボット(英語: Charles Talbot, 1st Baron Talbot, PC、1685年12月22日(洗礼日) – 1737年2月14日)は、グレートブリテン王国の法律家、政治家。1733年から1737年まで大法官を務めた。 生涯ダラム主教ウィリアム・タルボットとキャサリン・キング(Catherine King)の長男として[1]、チッペナムで生まれ[2]、1685年12月22日に洗礼を受けた[3]。1700年頃にイートン・カレッジで教育を受けた後[3]、1702年3月25日にオックスフォード大学オリオル・カレッジに入学、1704年10月12日にB.A.の学位を修得した[2][4]。同年にオール・ソウルズ・カレッジのフェロー(研究員)に選出され[2]、1707年6月28日にインナー・テンプルに入学、1711年2月11日に弁護士資格免許を得た[4]。その後、1714年4月26日にLL.B.の学位を修得した[2]。 1717年5月31日に王太子ジョージの法務次官に任命され、1719年1月31日にリンカーン法曹院入りを果たし、1726年5月6日にはインナー・テンプルとリンカーン法曹院の評議員に選出された[4]。1720年3月15日の補欠選挙で当選してトレゴニー選挙区の庶民院議員になり、1722年イギリス総選挙でシティ・オブ・ダラム選挙区に鞍替えした後、以降叙爵まで同選挙区の議員を務めた[4]。1722年の総選挙の後、議会が10月9日に開会すると、タルボットは王太子ジョージの寵臣スペンサー・コンプトンの庶民院議長選出を支持した[4]。 1726年4月23日にイングランド及びウェールズ法務次官に任命され、1727年に王太子ジョージがジョージ2世として国王に即位したときも続投した[4]。法務次官の在任中、タルボットはイングランド及びウェールズ法務総裁のフィリップ・ヨークとともにトマス・バンブリッジの訴追を進め、議会では1729年2月にヘッセン傭兵の維持を弁護、1733年3月にロバート・ウォルポールの消費税法案を支持した[4]。また、1729年にはヨークとともに奴隷制度に関する意見書を提出、奴隷制度が適法であるとした。この意見書は長らく法曹界の参考文献とされたが、マンスフィールド男爵のサマセット対ステュアートでの判決で覆された。1730年10月10日、父ウィリアム・タルボットが死去した[1]。 1733年に高等法院主席判事レイモンド男爵が死去、大法官キング男爵が辞任すると、ヨークとタルボットが2人の後任となることは順当だったが、タルボットがコモン・ローについては無知のため、タルボットが大法官に任命され(1737年11月29日[4])、ヨークがより下位の高等法院主席判事に任命された[3]。そして、ヨークをなだめるために、彼の俸給が毎年3千ポンドから4千ポンドに引き上げられ、さらにタルボットが俸給から1千ポンド拠出してヨークに与えることとなった[4]。大法官任命と同日、タルボットは枢密顧問官に任命され、12月5日にはヘンソルのタルボット男爵に叙された[3]。爵位名の「ヘンソル」は結婚で得たグラモーガンのヘンソルに由来する[5]。1734年1月17日、タルボットは正式に貴族院議員に就任した[4]。 最晩年の闘病生活では国王夫婦から毎日病状を聞かれたという。そして、1737年2月14日、タルボットはリンカーンズ・イン・フィールズの自宅で死去した[6]。長男ウィリアムが爵位を継承した[1]。 人物同時代の人々からは才人と評価され、ジョセフ・バトラーは著作の『自然宗教と啓示宗教のアナロジー』をタルボットに献呈した[5]。また、詩人ジェームズ・トムソンのパトロンだったという[5]。 ハーヴィー男爵はヨークとタルボットを「1人は無限の知識を有し、もう1人は無限の創意を有した」と高く評価した[3]。 家族1708年6月[3]、セシル・マシューズ(Cecil Mathews、1720年6月13日没、チャールズ・マシューズの娘)と結婚、5男をもうけた[1]。
脚注
関連図書
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