チャンス (1979年の映画)
『チャンス』(Being There)は、1979年のアメリカ合衆国のコメディ映画。監督はハル・アシュビー、出演はピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン、メルヴィン・ダグラスなど。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を下敷きにしたジャージ・コジンスキーの1970年の小説『庭師 ただそこにいるだけの人』(旧日本語題:予言者)をコジンスキー自ら脚色。 愚者が山から下り教師となって、エンディングではツァラトゥストラに則り超人となってしまう。それになぞらえた主人公を取り巻く人々の姿を20世紀後半のワシントンD.C.を舞台に活写した。 ストーリーテレビから「未完成交響曲」の演奏が放送されている。知的障害があって読み書きが出来ず、仕事以外の時間はテレビばかり見て過ごしている庭師のチャンスは、物心ついた頃から住み込みで働いてきた屋敷の当主の死を知らされるが、その意味を理解出来ないでいる。メイドのルイーズからは年上の女性と結婚しなさいよと忠告され、当主の代理人の弁護士から命じられて、今まで外に出たことがなかった屋敷から出されてしまうことになった。 チャンスは町に出てさ迷い歩いていたところ、歩道際で高級車に脚を挟まれてしまい、乗っていた美しいイヴから脚の治療をイヴの自宅ですることを勧められる。名前を問われて「庭師のチャンスです」と答えるが、「チャンシー・ガーディナー」という姓名であると勘違いされる。イヴの家では、病気療養中の夫であり経済界の大立者であるベンジャミンとも知り合うことになる。自動車に挟まれたことによる脚の怪我について、ベンジャミンの主治医であるロバート医師から「今回のことに関して賠償請求をする積りはあるか」と訊かれ、チャンスは「請求?何のことだか分からない」と答え、医師を安心させた。 ベンジャミンはチャンスを、その古風で丁寧な物腰もあり、事業に失敗して財産を失った実業家であると早合点し、チャンスによる単なる庭の手入れや植物の生長の話を「経営者は庭師みたいなものだ」とマクロ経済の話と誤解し、不況下の米国を立て直す暗喩であると考え、大統領や財界人に彼を紹介する。大統領はチャンスの発言を楽観的な政治的アドバイスと誤解し、その後の演説の中でチャンシー・ガーディナーの名前を出すことになる。チャンスは周囲の注目を集め始め、テレビのトーク・ショーに出演し、樹木が育つには季節があるなどという庭師の言葉が誤解され、幅広い人気を得る。ベンジャミンの代理でイヴ同伴で出席した夕食会でソ連大使の隣に座った際も、チャンスはユーモアと捉えられる軽妙な受け答えをし、また、大使の言うロシア語のジョークを分かったふりをして一緒に笑うことなどにより、一層の信頼感を醸し出していく。ロバート医師はチャンスの純朴さに違和感を覚え、チャンスは賢人などではなく、彼の経歴が不明なことも別の要因によるものとの疑念を深めていくが、チャンスがベンジャミンの最後の日々をいかに幸福なものにしているかを考慮し、その疑念をベンジャミンに伝えることはしなかった。ベンジャミンもチャンスのおかげで死が怖くなくなったと言い、イヴと共にその人間的魅力に益々惹かれて行く。再生不良性貧血により自宅で長患いをしてきたベンジャミンはまた、2人が近しくなるのを好ましくも感じていた。大統領の補佐官たちやメディアは、チャンスに関する情報が無いので調べ回るが何も出てこず、CIAかFBIが経歴を消した大物だと思わせる。或る夜、寝室でテレビを見ているチャンスにイヴが言い寄るが、「私は(テレビを)見たいだけなんだ」と返されたのを誤解し、自慰行為を行う。 その後、ベンジャミンが死去する際、チャンスはベンジャミンから「イヴを頼む」と言われる。ベンジャミンの臨終後、チャンスも死の意味を理解して涙を流す。そして、チャンスはロバート医師から「あなたは本当の庭師なのですね」と訊かれ、それを認めた。 大統領が弔辞を読む中、ベンジャミンと親しかった政財界の大物たちが葬儀の棺を運ぶ際、再選の見込みが無い現職の大統領に代えてチャンスを次期大統領候補へと祭り上げる方針が決まっていく。一方、そんな話に無頓着なチャンスは池の上を歩いて(水上を歩く奇跡を行ったというイエス・キリストの引用)去っていく。ベンジャミンの「人生とは心の姿なり」という遺言が響く。 キャスト
エンディング
関連情報
関連作品出典
外部リンク |