チャイントン
チャイントン(ビルマ語: ကျိုင်းတုံ[1]、ALA-LC翻字法: Kyuiṅʻ" tuṃ、IPA: [t͡ɕáɪntõ̀ʷ] チャイントウン; Kyaingtong) は、ミャンマー・シャン州東部の都市である。ケントゥン (Kengtung)、チェントゥン (タイ語: เชิยงตุง; Chiang tung) とも表記される。 地理チャイントンはシャン高原の山に囲まれた盆地にあり、タイ国境タチレクから約160キロメートル、中国国境のモンラーから約80キロメートルに位置する。町の中心のノントゥン湖とその畔の丘に建つ寺院、商店、民家などが密集して構成されている。 気候ケッペンの気候区分ではサバナ気候に区分される。標高が高いため、冬にあたる12月-1月は最低気温が10℃を下回ることがあり、4月の最も暑い時期でも40℃近くまで上がることは少ない。雨季は5-10月までであり、特に8月-9月にかけては雨量が多くなる。冷える季節でも雪は降らないが霧が立ち込め、夜間に水が凍り、屋内の人々は火鉢で暖を取る[1]。
歴史かつてはワ族の居住地であったが、13世紀にランナー王国マンラーイ王がこの地を征服し、城塞都市を築くと、北タイからの移民によりタイ系クン族(ビルマ語: ဂုံရှမ်း[2] ゴウンシャン (→ ゴンシャン族) あるいは ခွန်းလူမျိုး[1] クン・ルーミョー)が主な住民となった。マンラーイ王は王子と僧侶を派遣してチャイントンを支配させた[3]。以降ランナー、ビルマ、中国に朝貢しながら、1962年までマンラーイ王の直系子孫による統治が存続した。 ソーボワ治世マンラーイ王の子孫らはソーボワ(藩王)として代々チャイントン藩を世襲統治してきた。19世紀のビルマがイギリス領インド帝国編入後も、シャン州英国人弁務長官のもと、引き続きソーボワによる自治が認められた。1905年、当時のソーボワ・サオ・コン・キャオ・インタレンによって、ノントゥン湖畔に西洋風の宮殿が築かれた。1942年に日本軍のビルマ侵攻を受けた後、チャイントン藩はタイ王国に割譲された。戦後、パンロン協定でシャン州各藩とともに、ソーボワ制存続と自由離脱権限を条件にビルマ連邦へ加入するが、後のアウンサン暗殺と1962年の軍事クーデターにより、その取り決めは反故にされ、ソーボワ制は終焉した。チャイントン藩最後のソーボワ・サオ・サイ・ロンは軍事政権によって投獄された後に釈放されたが、故郷チャイントンに帰らぬまま首都ヤンゴンで死去した。1991年、ミャンマー政府によりノントゥン湖畔の宮殿も爆破・解体された。 山田長政残党伝説元ビルマ大使・鈴木孝は在任中、かつて山田長政の残党とみられる日本武士団がチャイントンに亡命してきたとの伝承を、彼らの子孫を称する人物らから聞いている[4]。鈴木が聞き取った内容は以下である。
交通周囲を山々に囲まれており、外の都市へは山中を抜けるか航空機を利用しなければならない。とはいえ、古くから交易の要衝であり、現在でも、ミャンマー中部メイッティーラと泰緬国境タチレクを結ぶ国道4号線(アジアハイウェイ2号線でもある)と、中緬国境(打洛、モンラー)へ通じるアジアハイウェイ3号線の合流地点となっている。 2015年現在、外国人はタイ国境タチレクとの間をバスやタクシーで往来可能だが、その他の都市とチャイントン間の陸路移動は認められておらず、検問所で取締りを受ける。一方、空路であれば外国人でも、ヤンゴン、マンダレーなど国内都市との移動が可能である。 脚注
参考文献
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