チッタドゥカーレ
チッタドゥカーレ(伊: Cittaducale)は、イタリア共和国ラツィオ州リエーティ県にある、人口約6,400人の基礎自治体(コムーネ)。 リエーティ、ファーラ・イン・サビーナに次いで県内第3位のコムーネ人口を有する。リエーティの東約8kmほどの距離にある小都市だが、20世紀初頭までは別の県に属する郡の中心地であった。 地理位置・広がりリエーティ県東部のコムーネ。県都リエーティから東南東へ8km、ラクイラから西へ37kmの距離にある[4]。 隣接コムーネ隣接するコムーネは以下の通り。 気候分類・地震分類チッタドゥカーレにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2240 GGである[5]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 2A (sismicità media) に分類される[6]。 歴史1860年のイタリア統一時、アクイラ・デッリ・アブルッツォ県(現在のアクイラ県)に組み込まれ、チッタドゥカーレ郡 (it:Circondario di Cittaducale) の郡庁が置かれた。チッタドゥカーレ郡は、現在のリエーティ県の東部地域にあたる。1927年、チッタドゥカーレ郡とリエーティ郡が合併し、リエーティ県が設立された。 社会カトリック教会1502年1月24日、教皇アレクサンデル6世は、リエーティ司教区から分割してチッタドゥカーレ司教区 (it:Diocesi di Cittaducale) を置いた。しかし、リエティ司教区を管理していた枢機卿ジョヴァンニ・コロンナ (it:Giovanni Colonna (cardinale XV secolo)) が異議を提起し、教皇ユリウス2世は1505年11月8日に司教区を廃止した。しかし、ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿の死後、リエーティの司教からの要請を受けて、ユリウス2世は1508年10月16日に司教区を回復した。 1798年にパスクアーレ・マティーニ (Pasquale Martini) 司教が没するまで、司教はチッタドゥカーレに住んで司教区をつかさどったが、その後はリエーティの司教に委託された。1818年6月27日、ピウス7世はラクイラ大司教区に統合。1976年、ふたたびリエーティ司教区の一部となった。「チッタドゥカーレ司教」は、名義司教の称号として残されている。 行政分離集落チッタドゥカーレには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
人口動態脚注
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