チウンチウン[1](チヴン)(ロシア語: тиун (тивун) 、ウクライナ語: тіун、ベラルーシ語: цівун、リトアニア語: tijūnas)とは、中世ルーシのクニャージ(公)やボヤーレ(貴族)に従事した、管理業に関わる役職の総称である。12世紀頃にはキエフ大公国に登場しており[2]、17世紀までのリトアニア大公国や中世ロシア政権(モスクワ大公国・ロシア・ツァーリ国)の役職名として存在した。チウンという名称は、古代北ゲルマン語の召使い(thjonn)に由来し[3]、ヴァリャーグと共にルーシの地にもたらされた[4]。 分掌キエフ大公国チウンは、ヴィルニク(ヴィーラ(罰金)徴収者)、メチニク(執行人)等と並ぶ、都市民を管理する役人(その場合、代行官という訳が当てられている[2])であると共に、クニャージの私邸内でも勤務した。(オグニシチヌィー・チウン(ru):家職長[5]、コニュシェンヌィー・チウン:馬丁頭[6])[7]。また、クニャージの所有する村落を管理するチウン(セリスキー・チウン:村のチウン、ラタイヌィー・チウン:農夫のチウン[注 1])も存在した。 チウンに対する裁判権は、チウンが従事するクニャージのみに認められていた[8] 。チウンに対するクニャージの権利は、原則的には、クニャージのホロープ(ru)(隷属民、奴隷)と同等だった。一方で、キエフ大公国の法典である『ルースカヤ・プラウダ(ru)』では、クニャージに仕えるチウンの殺害には80グリヴナのヴィーラ(罰金)が課され[9]、ボヤーレのチウンの殺害には40グリヴナのヴィーラが課された[10]。80グリヴナの罰金は、クニャージやドルジーナ(クニャージの従士団・親衛隊)に対するものと同額であり、ヴィーラの額としては最高額のものであった。セリスキー・チウン、ラタイヌィー・チウンのチウンの殺害に対しては12グリヴナのヴィーラが課されていた[11]。 キエフ大公国以降14世紀から17世紀にかけてのモスクワ・ロシアやリトアニア大公国においては、ヴェリーキー・クニャージ(大公)に仕えるチウンに関する記録がある。彼らは大公の財産や、都市、郷(ヴォロスチ)の統治に携わった。これらのチウンはナメストニクの役割を担い、裁判権を行使し、貢税を徴収した。なお、リトアニア大公国のハールィチ・ルーシ地方(旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国領)では、チウンは村落共同体(ru)の中から選出されるという、キエフ・ルーシ期の法律(ru)に見られるような形態を維持していた。 脚注注釈出典
参考文献
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