ダムロンラーチャーヌパープ
ダムロンラーチャーヌパープ王子(สมเด็จพระเจ้าบรมวงศ์เธอ กรมพระยาดำรงราชานุภาพ、太字以外は称号)(1862年6月21日 - 1943年12月1日、タイ仏暦2405年 - 2486年)は、タイのチャックリー王朝の5代目のチュラーロンコーン大王(以下ラーマ5世)の異母弟で、ラーマ5世に最も重用された人物である。名門ディッサクン家の始祖でもある。略称はダムロン王子。 略歴1862年にラーマ4世の57番目の子息として誕生した。少年時代は王宮英語学校に学び、王族の中でもずば抜けて高い英語力を付け、外文書籍を幅広く読み、在タイ外国人との交流も広かった。そのため、非常に高度な近代西洋的思想の持ち主であった。ラーマ5世は当時、チャックリー王室を牛耳っていたブンナーク家の独裁を嫌い、西洋化によってこの一家の勢力を一掃しようとしていたが、ラーマ5世のこの需要と、ダムロンの思想的な供給が一致し、ラーマ5世はダムロンを重用するようになった。 ラーマ5世の行ったチャクリー改革においては、非常に大きな位置を占め、教育改革から、モントン編成(州制度の導入)まで大きく関わった。 1910年にラーマ5世は崩御したが、ダムロンはその後即位したラーマ6世との仲はあまりよくなかった上、政治上の意見の食い違いから政界を引退した。しかし、持ち前の博覧強記を生かし、国立図書館、国立博物館などを設立した。また700以上にもおよぶタイ史関係の著作を発表し、今まで冗漫に記すだけの形式だったタイ史研究を近代学問のレベルに高めた。このためダムロンは後にタイ歴史学の父と評された。 その後、立憲革命により王族の立場が悪くなると、マレーシアのペナン島に亡命したが、第二次世界大戦において、1941年にペナン島が日本に占領されたため、タイ政府の意向で翌年帰国。その1年後の1943年12月1日、バンコクの自宅ウォーラディット宮にて生涯を終えた。 年表
主著括弧内はタイ仏暦
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