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ダウラギリ(Dhaulagiri, ネパール語: धौलागिरी)は、ネパール北部のヒマラヤ山脈のダウラギリ山系にある山。標高は8167 mで世界第7位。ダウラギリはサンスクリット語で「白い山」という意味である。
概要
ダウラギリは、1808年に初めてヨーロッパの人々に知られるようになり、カンチェンジュンガの存在が知られるまでの約30年間、世界一高い山と考えられていた。
登山
初登頂は、1960年にクルト・ディムベルガーらスイス・オーストリアの登山隊によって成し遂げられた。これは、飛行機を利用した初のヒマラヤ登山でもある。飛行機は5200 mのタパ峠と北東コル5877 m地点に着陸し、当時の着陸高度記録を作った[1]。この際に使用した飛行機(ピラタス PC-6)は、山に近づく際に破損したため山の中に捨てられた[2]。
チョンバルダン氷河上にベースキャンプを構え北東稜から登るルートが最も一般的なルートとなっているが、前進キャンプの設営や荷揚げ、高度順応の為に雪崩の多発地帯である北壁基部を何度も往復する必要があるため、登攀の難易度に反して遭難事故が発生しやすい。
南壁は屈指の難ルートとして知られ、ラインホルト・メスナーやトマジ・フマルが挑んだものの、いずれも登頂に至らず撤退している。
登頂史
- 南壁の登攀記録
- 1977年春 - ラインホルト・メスナー、ペーター・ハーベラーが6300 mまで。
- 1981年秋 - ユーゴスラビア隊3人が南壁右側をアルパインスタイルで登り、6日かけて7300 m地点まで登攀、南東稜に合流した。さらに4日かけて南東稜沿いに7950 mまで登るが、天候が悪化したうえストーブが故障。登頂を断念し、装備を残したままノーマルルートを下降した。麓の村までテントなしでさらに5日かかった。最後の6日間は食料が尽きていた[4]。
- 1986年秋 - ポーランド隊が西側を登り、7500 m付近で南西稜に抜けたが、悪天候と物資の不足により登頂せずに下山した。
- 1999年秋 - トマジ・フマルが南壁中央をアルパインスタイルで単独登攀。7200 mまで登り、ロックバンドを回避して右側にトラバース、7300 m地点で南東稜と合流した。そのまま8000 mまで登るが消耗が激しく、登頂せずにノーマルルートを下降した。
遭難史
- 1969年 - アメリカ隊が南東稜基部で雪崩に襲われ、7人が死亡。
- 1975年 - サウスピラー(南稜)を登攀中の日本隊を雪崩が直撃し5人が死亡。
- 1998年5月16日 - フランスの登山家シャンタル・モーデュイが雪崩に巻き込まれて死亡。
- 1999年10月24日 - イギリスの登山家ジネット・ハリソン(Ginette Harrison)が雪崩に巻き込まれて死亡。
- 2010年9月28日 - 日本人登山隊が雪崩に巻き込まれる。日本人1人死亡、日本人2名、シェルパ1人が行方不明[5]。
- 2013年5月23日 - 日本人登山家・河野千鶴子が体調不良のため頂上の手前120 mで引き返したが、標高7700 mで死亡[6]。
脚注
注釈
- ^ 1980年2月17日にエベレストが登頂されているが、当時のネパール政府の定めたヒマラヤ冬季(12月1日から2月15日)を越えている。
出典
- ^ a b 池田常道『現代ヒマラヤ登攀史』(山と渓谷社,2015年)
- ^ 打ち捨てられた飛行機の残骸
- ^ Xexplorers web:The meaning of winter in 8000+ climbing、山と渓谷2012年3月号、2014年2月号。登山においては世界的に冬至から春分の前日までを冬としている。
- ^ The South Face of Dhaulagiri(PDF) Alpine Journal 1983年 p181-182
- ^ “ヒマラヤ遭難捜索打ち切り”. 読売新聞. (2010年10月15日). http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/101015_6.htm 2010年10月15日閲覧。
- ^ 主婦登山家・河野千鶴子さん、ダウラギリで遭難 同行シェルパ「力尽きた」スポーツ報知 2013年5月29日06時05分
関連項目
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