ダウエント・ホイットルセー
ダウエント・ステインソープ・ホイットルセー(Derwent Stainthorpe Whittlesey、1890年 - 1956年)は、アメリカ合衆国の地理学者。1936年に「世界の農業地域区分」を発表し、世界の農業地域を13種類に区分した[1]。 経歴歴史学を修めた後シカゴ大学でエレン・センプルから地理学を学んだ[2]。その後、シカゴ大学の教員となり「地理学概論」・「政治地理学」などの講義を行っていたが、その受講生の中にリチャード・ハーツホーンがいた[3]。ハーツホーンはホイットルセーの影響を受け、後に政治地理学の研究を行っている[4]。また1927年にジョン・レイリーがアメリカ中西部の地理学を瑣末なものとして批判したこと[5]に不満を持ったハーツホーンに反論を書くよう勧め、ホイットルセーが編集長を務める『アメリカ地理学会年報』(Annals of the Association of American Geographers)に「地理学の本質」(Nature of Geography)と題した雑誌2号に渡るハーツホーンの論文を編集長の権限で掲載した[6]。 カリフォルニア大学バークレー校から教授職を提示されるも、センプルに反対され辞退、代わりにカール・O・サウアーが着任した[7]。1928年、ハーバード大学に移籍[7]。この時、バークレーで確固たる地位を築き始めていたサウアーから激励の手紙を受け取っており、地形輪廻で有名なウィリアム・モーリス・ディヴィス以来の伝統的な地質・地理学科で人文地理学を打ち立てようと奮起したと考えられる[7]。ホイットルセーは自身と同じく歴史の側面を重視するサウアーをライバル視している一面が見受けられ、上述のハーツホーンの「地理学の本質」は、事実上サウアーの地理学を否定する内容となっている[2]。 ハーバードでの講義の受講者には、後に連合国軍最高司令官総司令部の天然資源局技術顧問として日本へ渡ったエドワード・オーガスタス・アッカーマンがいた[8]。そして、表向きは財政難、実際はアッカーマンのハーバード大学準教授昇任を巡る地質学系と地理学系の綱引きにより、1948年2月に地質・地理学科の閉鎖が決定した[9]。アッカーマンや地質・地理学科を守ろうと努力したエドワード・アルマンは閉鎖後、他大学に移ったが、ホイットルセーは1956年に急死するまでハーバードに残った[10]。こうしてホイットルセーはハーバード大学最後の地理学者となったのであった[11] 。なお、ハーバード大学地質・地理学科廃止を阻止できたのではないかと考えられる人物としてイザイア・ボウマンが挙げられるが、ボウマンは同じ政治地理学で考え方の合わないホイットルセーを嫌い、母校のハーバード大学でホイットルセーが教壇に立っていることを快く思っていなかったからか、廃止に関して何らの関与もしなかった[10]。 ホイットルセーの理論遷移的占拠(Sequent occupance)時代ごとの地域における人間集団の土地占拠の様相を記述しようとするもの[12]。時間軸を採用しているところにディヴィスの影響が窺える[12]。 地域論→詳細は「地域 § アメリカ・イギリスの地域論」を参照
ホイットルセーによれば、地域とは「何らかの意味での一体性をもつ地表の広がり(範囲)」であるといい[13]、さらに地域を以下の3種類に分類した[14]。
ホイットルセーの農業地域区分ホイットルセーは、世界の農業(農牧業)地域を生産目的(自給的か商業的か)、生産性(粗放的か集約的か)、家畜と作物の組み合わせなどに着目し、13に区分した[15]。分類にあたって自然条件・経済条件・文化的要素総合的な視点を用い、指標の取り方も妥当であると評価されている[16]。また、世界的な分布図で表現したことから、現時点で最も広範に用いられる農業区分となっている[16]。現行の日本の高等学校の「地理A」・「地理B」で学習する農業地域区分はホイットルセーによるものであり[17][18]、大学入学試験に出題されることがある[19]。(より正確に言えば、ホイットルセーが発表した農業地域区分に修正を加えたものを学習している。)
上記のうち、いずれか一つを除いて12区分とすることがある[22]。 著書
共著
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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