コンパーノ(Compagno)は、日本の自動車メーカー・ダイハツ工業が1963年から1970年まで販売していた乗用車及び商用車である。
概要
オート三輪メーカーとして業界トップの座を東洋工業(現・マツダ)と争っていたダイハツ工業が、今後の成長分野として期待された乗用車市場に進出した第一作で、最初のプロトタイプは1961年秋の第8回全日本自動車ショウで発表された。しかし、このプロトタイプのフロントデザインはイタリアの中型車フィアット・1800/2100に酷似しており、小型大衆車のスタイルとしてはいかにもアンバランスで、一般にも不評であった。
この反省を踏まえ、ダイハツは翌年の第9回東京モーターショーに、改良を加えたライトバンのプロトタイプを出品した。イタリアのカロッツェリア・ヴィニャーレに委嘱されたスタイリングは前年のプロトタイプとは全く異なり、一挙に美しいイタリアン・デザインとなった。その生産型として1963年4月に発売されたのが、「ダイハツ・コンパーノ・ライトバン」である[注釈 1]。
メカニズム
コンパーノは技術的には保守的な設計をとっていた。特に、すでに他社の乗用車では既にモノコックボディが一般化していた時代にも関わらず、梯子型フレームを採用していた。そのため車両重量は755kgと比較的重く、当初搭載されていたOHV 800 cc 41馬力エンジン(FC型)では最高速度110 km/hに留まった。
一方、ギアボックスが当初から全車4速フルシンクロだったり、オプションでフロアシフトが選択できたこと、日本で初めて機械式燃料噴射システムを搭載したことなどは先進的であった。
また、梯子型フレームは4人乗りのオープンカーやピックアップトラックといった派生車種を設計するのには好都合だった。
型式 F30/31/40/41型(1963年-1969年)
- 1963年4月 - 「コンパーノ・ライトバン」発売。型式は「F30V」。スタンダードとデラックスがありで、当時の価格はスタンダードで47万円。
- 6月 - 「コンパーノ・ワゴン」発売。型式は「F30」。バンのデラックス版に相当。ダイハツ初の四輪乗用車となった。価格57万円。
- 11月 - 「コンパーノ・ベルリーナ」発売。型式は「F40」。当初は2ドアのみの発売。乗用車化はダイハツの自社設計。上方が根元より太く、ウインカーが埋め込まれたセンターピラーが特徴的[注釈 2]。デラックスの内装は木目パネルやナルディ型ウッド調3スポークステアリングなどでイタリア風に演出されていた。価格はデラックスで54万8,000円、スタンダードは46万8,000円。当時セダンは一般には単に「ベルリーナ」と呼ばれることが多かった。
- 1965年4月 - 「コンパーノ・スパイダー」発売。型式は「F40K」。前年10月に開催された第11回東京モーターショーに出品された2ドアコンバーチブルの生産化である。エンジンを998ccに拡大(FE型)、ツインキャブで最高出力65馬力・最大トルク7.8kgmとし、最高速度は145km/hとなった。フレームを持つため設計変更は比較的容易で、ファミリーユースにも使える4人乗りであることをアピールポイントとした。
- 5月 - スパイダーと同じ998ccにシングルキャブを装着し55馬力とした「コンパーノ・1000」(F41型)を追加。以後のコンパーノは商用車も含めこちらが主力となり、当初の800ccエンジンは廉価版の一部にのみ残されるのみとなった。同時にベルリーナにホイールベースを60mm延長した4ドアセダン(F31型)を追加。4ドアは最初から1,000ccのみであった。
- 10月 - ニューライントラックの事実上の後継車種となる500kg積みピックアップトラックの「コンパーノ・トラック」(F31P型)発売。ちなみにホイールベースは4ドアセダンと同一でこちらも排気量は1,000ccのみであった。
- 11月 - ベルリーナ2ドアにスポーティ仕様の「コンパーノ・1000GT」(F41型)を追加。エンジンはスパイダーと共通であった。
- 1967年4月 - 2速コラムシフトのAT車発売。
- 1968年4月 - 最後のマイナーチェンジでフロントグリルの変更。ファミリーグレードもスパイダーやGT同様のブラックグリルとなり、スーパーデラックスのリアエンドには派手なガーニッシュが装着された。
- 1969年4月 - 後継車種として、KP30系パブリカと共通の車体にダイハツ製1,000ccエンジンを搭載するダイハツ・コンソルテ(当初は「コンソルテ・ベルリーナ」と呼ばれた)登場。トヨタ自動車との業務提携により、ダイハツは小型乗用車の自主開発を休止することとなった[注釈 4]。コンソルテは2ドアセダンのみの設定で、スパイダー・ワゴンのみならず、パブリカには存在したバン・ピックアップも姿を消した[注釈 5]。ただし、コンパーノベルリーナの4ドア・スーパーデラックスのみが一年近く受注生産で販売継続(1970年1月まで)となった。
車名の由来
「コンパーノ」はイタリア語で「仲間」という意味。「ベルリーナ」(Berlina)は同じくイタリア語で「セダン型自動車」を意味する。
2019年に発売された小型クロスオーバーSUVである2代目ロッキーでは、コンパーノから由来した「コンパーノレッド」というボディカラーが存在し、その後、ダイハツが発売する他の車種にも設定されている。
その他
1964年の東京五輪に際しては、聖火リレーに合わせて6月12日から9月22日にかけてアテネ~東京間をハイラインとともに伴走した。[2]
1965年に日本車で初めて英国に正規輸出された乗用車である。8台が持ち込まれ、販売は同国のデュファイ・モータースが行った。[3]
脚注
注釈
- ^ ライトバンやピックアップを先に発売して、ワゴン・セダンを後から徐々に投入する手法はマツダ・ファミリアにも見られ、本田技研工業も、ライトバンのL700とピックアップトラックのP700を先行投入し、乗用車のプロトタイプ(N800。試作に終わった)を後に発表している。これは乗用車に関しては後発となる商用車やオートバイのメーカーが、自社の販路で売りやすい商用車の発売を優先させたのが理由とされているが、当時の通商産業省が乗用車生産の新規参入を規制する「特定産業振興臨時措置法案(特振法案)」の成立を目論み、ダイハツ・マツダ・ホンダ等の小型乗用車発売に様々な圧力をかけていたという事情もあった。この特振法は1964年に成立が断念されており、コンパーノやファミリアのセダンは廃案前後に発売されている。また、当時は平均的な所得に対して車両価格がまだ高額であったことから、自動車を複数所有することは一般的には困難で、物資の運搬が必要な個人事業主は、各種税金が安く、仕事と家族サービスを一台でまかなうことができるライトバン等の貨物自動車を選んでいた。
- ^ このピラー形状は当時の流行で、同時代の欧州車にも見られる。
- ^ 日本車初の燃料噴射エンジン車であるが、ツインキャブと同一の性能で価格が高かったため、生産台数は非常に少なかった。現存車があるかどうかも疑問である。
- ^ その後、ダイハツは再び自主開発を再開、1974年に既に旧モデルとなっていたE20系カローラをベースに4ドアセダン「シャルマン」と、自社開発の四輪駆動車「タフト」を発売し(ガソリン車の一部にトヨタ製エンジンを搭載、後にトヨタへ「ブリザード(初代)」の車名でOEM供給した)、更に1977年には100%ダイハツ設計によるリッターカー「シャレード」を登場させる。
- ^ コンパーノワゴン消滅後のダイハツが自主開発したワゴン(軽自動車は除く)は1996年に発売したパイザー(厳密にいえばトールワゴン)のみであるが、2002年に販売を終了し、ダイハツブランドのワゴンの販売も終了。2013年におよそ11年振りにプリウスαの5人乗りモデルのOEMのメビウスがハイブリッド専用(ステーション)ワゴンとしてラインアップに復活したことに伴い、ワゴンの販売が再開された。
出典
参考文献
関連項目