タールハイム (ハイルブロン郡)
タールハイム (ドイツ語: Talheim) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。シュトゥットガルト大都市圏周縁部に属す。 地理位置タールハイムはハイルブロン郡南部のネッカー川沿いに位置する。北の境界は大規模都市ハイルブロンに、南はラウフェン・アム・ネッカーに接する。町内をネッカー川の支流であるショツァハ川が貫通している。町の北東部には高さ285mのハイゲルン山がある。 隣接する市町村タールハイムに隣接する市町村は、北東から時計回りに、フライン、ウンターグルッペンバッハ、イルスフェルト、ラウフェン・アム・ネッカー(以上いずれもハイルブロン郡)、ハイルブロン(郡独立市)である。タールハイムは、フラインとともに、フラインに本部を置く自治体行政連合「フライン=タールハイム」を形成する。 歴史現在のタールハイムの地域には新石器時代にはすでに人が定住していた。発掘された骨格や陶片は、紀元前5000年から4900年頃以降の入植地であることを示している。『タールハイムの虐殺』と呼ばれる墳墓は、34体の新石器時代の男性骨格が出土したことで知られており、2007年の秋にはハイルブロンで展覧会も開催された。 現在のタールハイムの起源は、6世紀ないしは7世紀である。村の名前の語尾にある "-heim" は、フランケン語に由来する。タールハイムが初めて文献に記録されるのは、1230年である。17世紀までタールハイム家が治めたが、この他に自由地や、ヴュルツブルク、ヘッセン、ブランデンブルク、あるいはヴュルテンベルクのレーエンが混在していた。1356年にヴュルテンベルク公も地所と権利を獲得している。1499年には、タールハイムの2/3をドイツ騎士団、残りの1/3をゲンミンゲン家が領していた。 1805年にはドイツ騎士団の所領が、翌1806年にはゲンミンゲン家の所領もヴュルテンベルク領となった。タールハイムは、オーバーアムト・ハイルブロンに組み込まれた。 第二次世界大戦後には多くの住宅地が整備された。1966年に新しい学校が建設され、新しく運河が整備され、水道供給が始まった。また、ブドウ畑や耕地が区画整理され、工業地域が設けられた。 タールハイムは、特に鉱泉や薬湯、あるいはシュヴァーベン=アレマン・ファストナハト(謝肉祭の行事)で、特に良く知られている。 宗教タールハイムには、独自のプロテスタント教会組織と、(フラインと共通の)カトリック教会組織が、それぞれ一つずつある。2004年現在、プロテスタントの信者が2,076人、カトリックの信者が1,523人である。1942年までタールハイムには、有力なユダヤ教組織があった[2]。 行政議会タールハイムの議会選挙は、14人の議員からなり、これに議長を務める首長が加わる。 紋章と旗図柄: 銀地。紋章の左端(向かって右端)から突きだした赤い服を着た下腕。手には、黒いブドウナイフ(ハーペ)を持っている。町の旗は、黒 - 白である。 ブドウナイフを持った手の図柄は、タールハイムの紋章に1550年から現れる。17世紀から18世紀にかけてはこれに星や花が追加された。18世紀の標識石には、1本のあるいは十字に組み合わされた2本のブドウナイフが刻まれている。1903年頃に他の図柄が印章に現れる。それは、5連アーチの橋の下にヴュルテンベルクの鹿の角が2本描かれたものである。アーチ橋はショツァハ川に架かる橋をシンボライズしたものである。1930年、タールハイムは、1746年の印章に基づく、古い図柄を紋章として採用した。第二次世界大戦後に、図柄が簡略化される際に、ブドウナイフが間違って、鎌に描き替えられてしまった。1961年バーデン=ヴュルテンベルク州文書局の提案により、再び修正された。紋章の配色は、1927年に文書局に提案されたものである。1963年3月15日にこの紋章はバーデン=ヴュルテンベルク州内務省の認可を得、旗が与えられた。[3] 友好都市文化と見所建築
建築の項の出典は、[4] 経済と社会資本様々な企業の他、この町はブドウ畑で知られる。 ブドウ畑ブドウは主にブドウ生産者組合フライン=タールハイムにより出荷されている。タールハイムは、ヴュルテンベルク・ワインのヴュルテンベルク・ウンターラント地方キルヒェンヴァインベルク、シュタウフェンベルク地区に属す。 交通タールハイム中心部から西部の町域内、ラウハー・シュティヒ産業地域に接して連邦道B27号線が走っている。アウトバーンA81号線は、隣接するイルスフェルトおよびウンターグルッペンバッハにインターチェンジがある。 最寄りの駅は、ラウフェン・アム・ネッカーのハイルブロン - シュトゥットガルト路線の駅である。タールハイムは、マールバッハ・アム・ネッカーからハイルブロン南への狭軌鉄道ボットヴァールタール鉄道が通っていたが、この区間は1968年に廃止された。 メディアタールハイムでの出来事は、日刊紙 Heilbronner Stimmeの南東部版 (SO)に掲載される。これに加えて、町の広報紙 Mitteilungsblatt Talheimが毎週発刊されている。[5] 人物出身者
出典と脚注
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