1968年12月20日、レイク・ハーマン道路 (英: Lake Herman Road) のベニシア(英語版)市内側で、17歳のデービッド・アーサー・ファラデー(英: David Arthur Faraday)と16歳のベティ・ルー・ジェンセン(英: Betty Lou Jensen)が射殺された。2人は高校生であり、その日は最初のデートだった。2人はジェンセンの自宅から3ブロックほど離れたところにあるホーガン・ハイ・スクール(英: Hogan High School)で開催されるクリスマス・コンサートに出席する予定だった。しかし、コンサートへ向かう代わりに友人の元を訪ね、それから地元のレストランに立ち寄った。その後、レイク・ハーマン道路へ車で向かった。午後10時15分ごろ、ファラデーは母親が所有するランブラーを砂利道の待避所に停めた。その待避所はあまり人がおらず、恋人たちが2人きりで過ごせる場所であると知られていた。午後11時を過ぎてまもなく、2人の遺体が近所に住むステラ・ボージス(英: Stella Borges)という人物により発見された。ソラノ郡保安官事務所が事件を捜査したが、手がかりは得られなかった[1]。ジェンセンは「セシリア・シェパード」という芸名で活動していた俳優でもあった。
1969年7月4日の午後12時前、19歳のマイケル・ルノー・マジョー(英: Michael Renault Mageau)と22歳のダーリーン・エリザベス・フェリン(英: Darlene Elizabeth Ferrin)はバレーホにあるブルー・ロック・スプリングス・パーク(英: Blue Rock Springs Park)に車で入った。その場所はレイク・ハーマン・ロードの殺人現場から6キロメートルほど離れたところにあった。2人がフェリンの車の中にいたところ、別の車が来て、2人の車の隣に停まったが、すぐに走り去った。それから10分後にその車が戻ってきて、2人の車の後ろに停まった。運転手が車を降りて、2人の車の助手席側に近づいてきた。その人物は懐中電灯と9ミリ口径のルガーを持っていた。犯人は2人の目に懐中電灯を向けたのち、2人に対して5回発砲した。銃弾は2人に命中し、いくつかはマジョーの体を貫通してフェリンにも当たった。犯人は2人の車から歩き去ったが、マジョーの呻き声を聞くと引き返し、さらに2人に2回ずつ発砲した。その後、車に乗って現場を去った[3]。
"I like killing people because it is so much fun it is more fun than killing wild game in the forrest because man is the most dangeroue anamal of all to kill something gives me the most thrilling experence it is even better than getting your rocks off with a girl the best part of it is thae when I die I will be reborn in paradice and all the I have killed will become my slaves I will not give you my name because you will try to sloi down or atop my collectiog of slaves for my afterlife ebeorietemethhpiti"
サンフランシスコ・クロニクルは翌日の新聞の4面に3番目の暗号を掲載した。暗号の隣に掲載された記事では、バレーホ警察署長のジャック・E・スティルツ(英: Jack E. Stiltz)による「我々警察は手紙が犯人によって書かれたものであると確信していない」という発言が引用された。スティルツ署長は、手紙の送り主に自身の正体を示す証拠とともにもう1通手紙を送ることを要求した[8]。犯人が予告した殺人は起こらなかった。暗号文の残りの2部も最終的には掲載された。
1969年8月7日、新たな手紙がサンフランシスコ・エグザミナー社に届いた。その手紙は"Dear Editor This is the Zodiac speaking"という書き出しで始まった。この手紙で犯人は初めて「ゾディアック」という名義を使用した。この手紙はスティルツ署長の要求に応えたもので、手紙の書き手がファラデー、ジェンセン、フェリンを殺害した犯人であることの証明になった。手紙の中で、ゾディアックは殺人事件について一般には非公開の情報まで記載していたのである。暗号を解読すれば自分を捕まえられるという警察に宛てたメッセージも記していた[9]。
1969年8月8日、サリナスに住むドナルド・ハーデン(英: Donald Harden)とベティ・ハーデン(英: Bettye Harden)が暗号文を解読した。『猟奇島』からの引用と思われる文もあったが、綴りに誤りが見られた。死後の奴隷を集めているという記述もあった[注 2]。解読された暗号には犯人の名前は無かった。ゾディアックは自分の正体を明かせば奴隷集めが遅くなるか止めることになるから正体は秘密にすると記していた[6]。
ベリエッサ湖の殺人
1969年9月27日、パシフィック・ユニオン・カレッジ(英語版)の学生である20歳のブライアン・カルビン・ハートネル(英: Bryan Calvin Hartnell)と22歳のセシリア・アン・シェパード(英: Cecelia Ann Shepard)はベリエッサ湖(英語版)(英: Lake Berryessa)でピクニックを楽しんでいた。場所はツイン・オーク・リッジと砂嘴で繋がる小さな島である。2人のもとに白人男性が近づいてきた。その男性は身長は約180センチメートル、体重は77キログラムを超える程度で、処刑人のような黒いフードを被り、両目の覗き穴にはクリップ留めのサングラスを掛けていた。胸部には胸当てのようなものがあり、それには7センチメートル四方の円と十字を組み合わせた記号が白色で描かれていた。男性は銃を持っており、ハートネルによれば45口径だったという。フードの男はコロラド州かモンタナ州にある2単語で構成される名の刑務所から逃げ出した囚人であると称した (後にある警察官が、その男性が言及していたのはモンタナ州ディアロッジ(英語版)<英: Deer Lodge>にある刑務所のことではないかと推測している)。男性は看守を殺害して車を盗んだと主張した。2人の車と金がメキシコへ向かうのに必要だと説明した[12]。
午後7時40分、犯人は公衆電話からナパ郡保安官事務所へ自ら通報した。通報者は最初、オペレータに殺人事件を通報したいと説明したが[17]、その後に自分がその犯人であると明かした。通報から数分後、通報に使用された電話が、受話器が外れたままの状態で発見された。電話はナパのメイン・ストリートにあるナパ・カー・ウォッシュ(英: Napa Car Wash)にあり、犯行現場からは43キロメートル、保安官事務所からはほんの数ブロック離れた距離にあった。発見者はKVON(英語版)ラジオのレポーターであるパット・スタンレー(英: Pat Stanley)だった。刑事たちは電話機から乾ききっていない掌紋を採取できたが、掌紋は被疑者のだれとも一致しなかった[18]。
近くの入江で釣りをしていた父子が、被害者たちの助けを求める叫び声を聞きつけて2人を発見した。父子はパーク・レンジャーに連絡をとって救援を呼んだ。ナパ郡保安官代理のデーブ・コリンズ(英: Dave Collins)とレイ・ランド(英: Ray Land)は犯行現場に到着した最初の法執行官だった[19]。コリンズが到着したときにはシェパードには意識があり、犯人の外見を詳細に説明した。ハートネルとシェパードは救急車でナパにあるクイーン・オブ・ザ・バレー・メディカルセンター(英語版)に搬送された。シェパードは搬送中に昏睡状態に陥り、意識を取り戻すことはなく、2日後に死亡した。しかし、ハートネルは生き延び、報道機関に犯行について説明した[20][21]。ナパ郡刑事のケン・ナーロー (英: Ken Narlow) は当初からこの事件の捜査に配属されており、1987年に刑事部を退職するまで捜査に取り組んでいた[22]。
プレシディオ・ハイツの殺人
2週間後の1969年10月11日、サンフランシスコにあるメイソン・ストリートとギアリー・ストリートの交差点(ユニオン・スクエア(英語版)から1ブロック西にある)で、白人男性がポール・スタイン(英: Paul Stine)の運転するタクシーを拾った。客はサンフランシスコの近隣地区であるプレシディオ・ハイツ(英: Presidio Heights)にあるワシントン・ストリートとメープル・ストリートの交差点に向かうように求めた。スタインは何らかの理由で、メープル・ストリートからチェリー・ストリートの方向に1ブロック過ぎた箇所で停まった。すると、客は9ミリ口径の拳銃でスタインの頭を1回撃ち、スタインの財布とタクシーの鍵を奪った。さらに、スタインの血に染まったシャツの裾を引き裂いて持ち去った。午後9時55分に、3名の10代の少年たちが通りを挟んだ向かい側から犯人の姿を目撃していた。凶行の最中、3人は警察に通報した。3人は客がタクシーを拭って証拠を抹消し、1ブロック北にあるプレシディオ(英語版)の方へ歩き去っていくのを見た[23]。
通報に駆け付けた巡査のドン・ファウク(英: Don Fouke)とエリック・ゼルムス(英: Eric Zelms)が、犯行現場から2ブロック離れたところで、白人男性がジャクソン・ストリートを東に歩道沿いを歩いているのを見かけた。男はジャクソン・ストリートの北側にある家々のうちの1軒の前庭へと通じる階段を上っていき、すぐに姿を消した[24]。
スタイン殺害は当初、ありきたりな強盗が殺人沙汰に発展したものと考えられていた。しかし、10月13日、サンフランシスコ・クロニクル宛てにゾディアックからの新たな手紙が届けられた。手紙にはスタイン殺害は自身によるものであると記されており、スタインの血染めのシャツの切れ端が証拠として同封されていた[25]。3人の少年たちの証言により、警察の似顔絵捜査官が犯人の似顔絵を作成した。刑事のビル・アームストロング(英: Bill Armstrong)とデイブ・トスキ(英語版)(英: Dave Toschi)がスタイン殺害の捜査を任命された。サンフランシスコ市警察は数年間にわたって推定2,500名の被疑者に対して捜査を展開した[26]。トスキはのちに、一連の事件を基に制作された映画「ダーティーハリー」の主人公ハリー・キャラハンのモデルになる。
1969年の手紙
"I hope you are having lots of fan in trying to catch me that wasnt me on the tv show which bringo up a point about me I am not afraid of the gas chamber becaase it will send me to paradlce all the sooher because e now have enough slaves to worv for me where every one else has nothing when they reach paradice so they are afraid of death I am not afraid because i vnow that my new life is life will be an easy one in paradice death"
1969年10月14日、サンフランシスコ・クロニクル社はゾディアックからの手紙を受け取った。この手紙には、ポール・スタインのシャツの裾の切れ端が、自身が犯人であることの証拠として同封されていた。また、手紙には、スクールバスを襲って、学童を殺すという脅迫も記されていた。スクールバスの前輪のタイヤを撃ち抜き、バスから逃げ出してきた子供を狙い撃ちすると書かれていた。10月20日の午後2時、ゾディアックを称する主張する人物が、オークランド警察(英語版)に電話を掛け、ジム・ダンバー(英語版)(英: Jim Dunbar)が司会を務めるKGO-TVのトーク番組A.M. San Franciscoに著名な弁護士であるF・リー・ベイリー(英語版)(英: F. Lee Bailey)かメルビン・ベリ(英語版)(英: Melvin Belli)のどちらかを出演させるように要求した。ベイリーは都合がつかなかったが、ベリが番組に出演することになった。ダンバーはいつでも電話に出られる状態であると視聴者にアピールした。ゾディアックを称する人物が数回電話をかけてきた。ベリは電話の主にゾディアックよりも不気味でない名前で呼びたいと頼むと、電話の主は「サム」(英: Sam)と呼ぶように言った。「サム」はガス室送り (当時のカリフォルニア州の死刑ではガス室が使用された) にされることを恐れ、本当の身元を明かすつもりはないと語った。ベリは「サム」にデイリーシティのミッション・ストリート(英語版)にある店の外で会う約束を取り付けた。しかし、誰も約束の場所には現れなかった。後に、電話は精神科病院の患者が掛けたことが判明した。捜査官たちは「サム」はゾディアックではないという結論を下した[29]。
1969年11月8日、ゾディアックは新たな暗号が書かれた葉書を送った[30]。この暗号は340の記号で構成されており、「Z-340」と呼ばれていた。51年間未解読のままだったが、2020年12月5日、民間人の集団により解読された。暗号を解読したのはアメリカ人のソフトウェア技術者デービッド・オランチャク(英: David Oranchak)、オーストラリア人の数学者サム・ブレーク(英: Sam Blake)、ベルギー人のプログラマのイアール・バンアイケ(英: Jarl Van Eycke)の3名である。暗号には、KGO-TVの放送に現れた「サム」を名乗った人物は自分ではない、ガス室へ送られても早めに天国へ行けるだけだから恐れてはいないと書かれていた[31][32][33]。3人の解読者たちは自身の発見を連邦捜査局(FBI)へ提出した。FBIは調査内容を検証し[31]、解読されたメッセージからはゾディアックの正体に繋がるさらなる手がかりは発見されなかったという声明を出した[34][35]。
ほとんどの情報源で、男は運転中にジョーンズと娘を殺すと脅迫したとされている[42]。しかし、少なくとも1件の警察の報告書でそれは否定されている[40]。サンフランシスコ・クロニクルの記者ポール・エイブリー(英: Paul Avery)にジョーンズが証言した際に、犯人の男は自分の車から出て、暗がりで懐中電灯を使って自分を探そうとしていたと説明した[43]。しかし、ジョーンズが警察に報告した際のある報告書では、男は車から出てこなかったとジョーンズが証言したと記されている[40]。
1970年の手紙
1970年、ゾディアックは報道機関に手紙やグリーティングカードを送ることで、当局を相手に意思疎通を図ろうとしていた。1970年4月20日の消印が押された手紙で、ゾディアックは自分の名前を13文字の暗号で記したとされるが、その暗号は現在も解読されていない[44]。手紙には続けて、最近起きたサンフランシスコの警察署での爆弾事件は自分の仕業ではないとも記されていた。2月16日にゴールデン・ゲート・パークの駐車場で爆弾が爆発し、2日後にブライアン・マクドネル(英: Brian McDonnell)巡査部長が死亡する事件が起きており、手紙はこの件について言及しているようだ[45]。ただ、手紙には、警察官は撃ち返してくるため、子供を殺すよりも警察官を殺す方が名誉なことだとも書かれている。爆弾の絵も描かれており、ゾディアックは爆弾でスクールバスを爆破すると主張した。爆弾の絵の下には " = 10, SFPD = 0."と書かれていた[46]。
1970年6月26日付けの消印が押された手紙では、人々がゾディアックのボタンを身に着けなかったため腹が立ったというような内容が書かれていた。ゾディアックは38口径の銃で駐車した車の中にいた男を撃ったと主張した[48]。1週間前の6月19日に25歳のリチャード・ラデティッチ (英: Richard Radetich) 巡査部長が殺害された事件に言及している可能性がある。その日の午前5時25分、ラデティッチ巡査部長がパトカーの中で駐車違反切符に書き込みをしていたとき、閉じていた運転席側の窓から違法駐車とは無関係の人物に38口径の拳銃で頭を撃たれたのである[49]。ラデティッチ巡査部長は15時間後に死亡した。サンフランシスコ市警察は事件にゾディアックが関係する可能性を否定した。この事件は現在も未解決のままである[45]。
1970年10月27日、サンフランシスコ・クロニクルの記者で、ゾディアック事件の報道を担当していたポール・エイブリー(英語版)の元にハロウィン・カード(英語版)が届いた。カードには'Z'の文字と円と十字を組み合わせた図形で署名されていた。カードの内側には手書きで"Peek-a-boo, you are doomed"と脅迫と解釈できるメッセージが書かれていた。このカードの件は冗談とは見なされず、サンフランシスコ・クロニクルの1面で報道された[57]。このカードを受け取ってからまもなく、エイブリーの元に匿名の手紙が届いた。その手紙は、ゾディアック事件とシェリ・ジョー・ベイツ殺害事件(英語版) (詳細は後述) との間に共通点があることを指摘する内容だった[58]。エイブリーは1970年11月16日のサンフランシスコ・クロニクルの記事で自身の調査結果を報告している。
リバーサイドの殺人
1966年10月30日、リバーサイド市立大学(英語版)に在籍していた18歳の学生シェリ・ジョー・ベイツ(英: Cheri Jo Bates)は、キャンパス内の図書館の別館で夜を過ごし、午後9時に閉館するまでその場所に居た。午後10時30分ごろに近隣住民が悲鳴を聞いたという。翌朝、ベイツの遺体が図書館から少し離れた場所で発見された。発見現場はキャンパスの改築で取り壊しが予定されていた2軒の使われていない建物に挟まれていた場所だった。ベイツのフォルクスワーゲンのディストリビュータのキャップのワイヤーが引き抜かれていた。ベイツは残忍に殴打され、刃物で刺されて死に至った。現場の近くで、男物のタイメックスの腕時計がリストバンドが裂けた状態で発見された[59]。腕時計は12時24分で止まっていた[60]。しかし、警察はそれよりもかなり早い時間で犯行が行われたと考えている[59]。
1か月後の11月29日、警察と新聞社のリバーサイド・プレス・エンタープライズ(英語版)社にタイプライターで書かれた手紙が届いた。手紙の内容はほぼ同じで、"The Confession" (日本語: 告白) と題されていた。手紙には、自分がベイツ殺害の犯人であると書かれており、犯行について詳細にわたって記述されていた。一般には公開されていない情報も含まれていた。手紙には、書き手はベイツ殺害だけでなく他にも殺人を犯すつもりでいるとも書かれていた[61]。同年12月、リバーサイド市立大学の図書館にある机の裏側に詩が彫り込んであることが判明した。詩は"Sick of living/unwilling to die"と題されており、詩の言葉遣いや筆跡がゾディアックの手紙のそれと類似していた。詩には"rh"と署名されており、イニシャルと思われた。1970年の捜査の際に、カリフォルニア州の主席筆跡鑑定調査官であるシャーウッド・モリル(英: Sherwood Morrill)は、詩はゾディアックが書いたものだと考えているという見解を示した[62]。
ベイツ殺害からちょうど6か月後の1967年4月30日、ベイツの父のジョセフ(英: Joseph)、プレス・エンタープライズ社、リバーサイド警察の元にほぼ同じ内容の手紙が届いた。プレス・エンタープライズ社と警察に届いた手紙には、殴り書きで"Bates had to die there will be more" (直訳すると「ベイツは死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれていた。手紙の下部には小さなZの文字のようなものが走り書きで書かれていた。ジョセフ・ベイツに届いた手紙には、"She had to die there will be more" (直訳すると「彼女は死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれており、このときはZの署名はなかった[63]。2021年8月、リバーサイド警察署未解決殺人事件部は、2016年に手紙の送り主が匿名で警察と接触し、2020年にDNA鑑定で身元が判明したと公表した。手紙の送り主は、手紙は不愉快な悪戯だったと認めて謝罪し、10代の少年だったころに注目を集めるために手紙を書いたと説明した。警察は手紙の送り主がゾディアックではないことを確認した[64]。
1971年3月22日、サンフランシスコ・クロニクル社に葉書が届いた。葉書は記者のポール・エイブリー(英: Paul Avery)に宛てられていたが、"Paul Averly"と誤って書いていた。ゾディアック本人が書いたものと見られ、1970年9月6日のドナ・アン・ロス(英: Donna Ann Lass)失踪事件の犯人が自分であると主張していた[67]。葉書の内容は、広告や雑誌のレタリングをコラージュしたもので、フォレスト・パインズのコンドミニアムの広告からの切り抜きに、 "Sierra Club"、"Sought Victim 12"[68]、"peek through the pines"、"pass Lake Tahoe areas"、 "around in the snow"といった文字が貼り付けられていた。ゾディアックの十字と円を組み合わせた記号が、通常は返信先を書く場所と、表面の右下の2箇所に書かれていた[69]。
当時25歳のラスは「サハラ・タホ」(英: Sahara Tahoe)というホテル兼カジノで看護師として働いていた。1970年9月6日は午前2時ごろまで働き[69]、午前1時40分には最後の患者の治療を行っていた。同日、それよりも後の時間に、ラスの雇い主とラスの借家の大家へ見知らぬ男性から電話がかかった。電話は、ラスが家族の緊急事態を理由に町を出たという内容だったが、実際には虚偽だった[70]。ラスはそれから行方不明になった。カリフォルニア州ノーデン(英語版)のClair Tappaan Lodgeの近くに墓所と思われるものが発見された。その場所はシエラクラブ(英: Sierra Club)の所有地だった[71]。ラスの失踪をゾディアック事件と決定的に結びつける証拠は発見されていない。
サンタバーバラ郡の殺人
1972年11月13日付けのバレーホ・タイムズ・ヘラルド[72]に、サンタバーバラ郡保安官事務所のビル・ベーカー(英: Bill Baker)が1963年にサンタバーバラ郡北部で若いカップルが殺害された事件はゾディアックによる犯行だった可能性があると推測しているという話が掲載された。1963年6月4日、カリフォルニア州ロンポーク(英語版)の近くの砂浜で、18歳の高校3年生ロバート・ジョージ・ドミンゴス(英: Robert George Domingos)と、その婚約者で17歳のリンダ・フェイ・エドワーズ(英: Linda Faye Edwards)が銃殺された。その日、2人は「シニア・ディッチ・デー(英語版)」(3年生が学校を休める日)で学校を休んでいた。警察は、犯人は2人を拘束しようとしたが逃げられてしまい、背中や胸部を22口径の銃で繰り返し撃ったと考えている。その後、犯人は2人の遺体を小さな掘っ建て小屋に移動させ、それから小屋を全焼させようとしたが失敗している[73]。
1974年5月8日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。『地獄の逃避行』という映画は殺人を賛美していると批判する内容で、新聞社にその広告を除くように求めていた。"A citizen"(直訳すると「ある市民」)とだけ署名されており、筆跡や書きぶりが、以前のゾディアックの手紙と似ていた[77]。その後、7月8日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。反フェミニストのコラムニストであるマルコ・スピネリ(英: Marco Spinelli)の著作をサンフランシスコ・クロニクル社が出版したことを批判する内容だった。手紙には"the Red Phantom (red with rage)"(直訳すると「赤い幻影 (怒りで顔が真っ赤)」)と署名されていた。この手紙がゾディアックによるものなのか議論されている[77]。
2020年2月、地元の歴史家のクリスティ・ホーソーン(英: Kristi Hawthorne)は、ゾディアックは1962年4月、カリフォルニア州オーシャンサイドでタクシー運転手のレイ・デービス(英: Ray Davis)を殺害した可能性があるという説を発表した。殺人事件が起きる前日の1962年4月9日、犯人と思われる人物がオーシャンサイド警察に電話をかけ、"I am going to pull something here in Oceanside and you'll never be able to figure it out."(直訳すると「俺はこのオーシャンサイドで何かをやってのけるつもりだが、お前らにはそれを決して理解できないだろう」)と発言した。犯行の数日後、警察に同一人物からと思われる電話がかかってきた。その際、電話の主は事件について詳細にわたって説明し、次はバスの運転手を殺すと発言した。ホーソーンの調査の後、オーシャンサイド警察はデービス殺害とゾディアック事件との関係性を調査しているという声明を出した[86][87][88][89]。
2021年10月、「ケース・ブレーカーズ」(英: Case Breakers)という40名以上の元法執行機関捜査官、軍部情報機関職員、記者で構成される集団が、ゾディアックの正体が2018年に死亡したゲアリー・フランシス・ポステ(英: Gary Francis Poste)であることを突き止めたと発表した。ケース・ブレーカーズは、科学的な証拠を明らかにし、ポステの暗室から写真を発見したと主張し、ポステの額にある傷がゾディアックのそれと一致していると説明した。また、ゾディアックの暗号のうちの1つからポステの名前を構成する文字を消すと、別のメッセージが現れるとも主張した。ケース・ブレーカーズはゾディアックのDNAとポステのDNAが一致するか確認することを警察に求めた[95][96][97]。その後、FBIは、事件の捜査は続いており、報告すべき新しい情報はないという声明を出した[98]。地元の法執行機関はケース・ブレーカーズの発見に懐疑的な見解を表明した[99]。リバーサイド警察のライアン・レールズバック(英: Ryan Railsback)は、ケース・ブレーカーズの主張は主として状況証拠に依拠していると発言した[100][101]。ゾディアック研究家でもある著述家のトム・ボイト(英: Tom Voigt)は、ケース・ブレーカーズの主張はでたらめであると批判し、ゾディアック事件の目撃者は誰もゾディアックの額に傷があるとは証言していないと発言した[102]。2023年5月、ゾディアック事件の容疑者として、ポステへの新たな関心が浮上したため、捜査の失敗に終わった[103]。
アーサー・リー・アレン
ロバート・グレイスミスの著書Zodiac(英語版)(邦題『ゾディアック』)では、1992年に死亡したアーサー・リー・アレン(英: Arthur Leigh Allen)という人物を状況証拠を元に被疑者と見なしていた。警察はゾディアック事件捜査の初期にアレンに聴取しており、20年のうちに数回、捜索令状が発行された。2007年、グレイスミスは、数名の刑事がアレンを最も疑わしい被疑者であると見なしていたと発言した[104]。2010年、担当刑事だったデーブ・トスキは、アレンに対する証拠はすべて最終的にはアレンが犯人の可能性を否定するものと判明したと発言した[105]。2018年のトスキの娘の発言によると、父はいつもアレンが犯人であると考えていたが、警察にはそれを証明する証拠がなかったという[106]。
1969年10月6日、アレンはバレーホ警察のジョン・リンチ(英: John Lynch)刑事から聴取を受けた。アレンは1969年9月27日のハートネルとシェパードが襲われた事件の際にベリエッサ湖の近くにいたと言われていた。アレン自身によれば、その日はソルト・ポイント・ステート・パーク(英語版)でスクーバダイビングを楽しんでしたという[107]。1971年に、アレンは再び警察の注意を引いた。アレンの友人であるドナルド・チェイニー(英: Donald Cheney)がマンハッタンビーチの警察に、アレンが人を殺したいという欲求があると語っていたこと、ゾディアックという名を使っていたこと、夜間に見えるように銃火器に懐中電灯を備え付けていたことを報告した。チェイニーによれば、このアレンとの会話は1969年1月1日までにはあったことだったという[108]。
その後、バレーホ警察のジャック・ミュラナックス(英: Jack Mulanax)は、アレンは1958年に名誉除隊以外の理由で海軍を除隊し、1968年3月に生徒に対する性的違法行為の申し立てにより小学校の教師の職を失ったと記した。アレンを知る人からのアレンの評判は概して良かったが、幼い子供に執着し、女性に怒りを向けていたとも言われていた。
1991年2月、バレーホ警察に対して、再度、アレンの住居への捜索令状が発行された[111]。1992年、アレンが死亡してから2日後、バレーホ警察に対して再度令状が発行され、アレンの住居から所有物が押収された[112]。1992年7月、ゾディアック事件の被害者であるマイク・マジョーは、面通し用の写真から、アレンを1969年に自分を撃った男であると認めた[113][114]。しかし、スタイン殺害の際にゾディアックを目撃したとされる警察官のドナルド・ファウクは、2007年のドキュメンタリーHis Name Was Arthur Leigh Allenに出演した際に、アレンは自分が見た男よりも45キログラムほど体重が重すぎる、顔も丸すぎると述べた。マジョーとフェリンが銃撃を受けた後にゾディアックからの電話を受けたナンシー・スローバー(英: Nancy Slover)は、アレンの声は電話で聞いた男の声とは似ていないと述べた[115]。
ローレンス・ケー(英: Lawrence Kaye、後にローレンス・ケーン <英: Lawrence Kane>)
ゾディアックに誘拐されかけたとされるキャスリーン・ジョーンズは、警察が面通しとして提示した写真からケーンを選び出した。ポール・スタイン殺害後のゾディアックを目撃した可能性がある警察官のドン・ファウクは、ケーンは自分が見かけた男とよく似ていると発言した。ケーンはゾディアックの犠牲者の可能性があるドナ・ラスと同じネバダ州のホテルで働いていた。ケーンは1962年に事故に遭い、脳を負傷してから衝動制御障害と診断された。覗き見や徘徊で逮捕されたことがある[121]。2021年、フランス系モロッコ人のビジネス・コンサルタントFayçal Ziraouiは13の記号の暗号を解読したと主張しており、暗号は"My name is Kayr"と読める、"Kayr"は"Kaye"の誤りである可能性が高いと発言している[122]。
リチャード・マーシャル(英: Richard Marshall)
警察の情報提供者たちの主張によれば、マーシャルは自分が犯人であると個人的な会話で仄めかしていたという。マーシャルは1966年にはリバーサイドに、1969年にはサンフランシスコに住んでおり、ベイツ殺害やスタイン殺害の現場に近い場所に居た。マーシャルは熱狂的なサイレント映画の愛好家であり、映写技師だった。セグンド・デ・チョーモン(英語版、フランス語版)の1907年の映画The Red Phantomを上映していた。この映画の題名は、1974年にゾディアックが送った可能性のある手紙の名義に使われていた。ケン・ナーロー刑事はマーシャルを被疑者として有力視していなかった[121]。
ジャック・タランス(英: Jack Tarrance)
2007年、デニス・カウフマン(英: Dennis Kaufman)は継父のタランスがゾディアックであると主張した[123]。カウフマンはいくつかの物品をFBIに提出した。その中にはゾディアックが着ていたものと同じフードもあった。ニュースによれば、2010年にFBIはこれらの物品に対してDNA鑑定を実施したが、結論は出なかったという[124]。
姓名不詳の水夫
2009年、元弁護士のロバート・ターボックス(英: Robert Tarbox、1975年8月に顧客への支払いの不履行を理由にカリフォルニア州最高裁判所により弁護士資格を剥奪された[125][126])が、1970年代前半にある水夫がターボックスの事務所を訪れて、自分がゾディアックであると告白したと主張した。ターボックスは守秘義務により水夫の名前を明かさなかった。水夫は見たところ明瞭な人物で、自身の犯行についてターボックスに話した。説明は手短だったが、ターボックスが話を信じるのに十分なほどの説得力があった。水夫は自分の殺人を止めようとしていると話していたが、二度とターボックスと会うことはなかった。ターボックスはバレーホ・タイムズ・ヘラルドに全面広告を出した。広告には、ターボックスはアーサー・リー・アレンの汚名をそそぐことになると書かれていた。アレンの濡れ衣を晴らすことが、ターボックスが30年前の会話を明かした唯一の理由であるという。ロバート・グレイスミスは、ターボックスの話は全体的に尤もらしいと評した。
2014年2月、ルイス・ジョセフ・マイヤーズが肝硬変により死の淵にあったとき、友人に自分がゾディアックであることを告白したと報じられた。この告白があったのは2001年のことである。マイヤーズは友人のランディ・ケニー(英: Randy Kenney)に、自分が死んだ後にすぐに警察に行くように求めた。マイヤーズは2002年に死亡した。しかし、ケニーの主張によれば、警察の協力を得て、話を真剣に取り合ってもらうのに難があったという。マイヤーズはゾディアック事件の被害者であるデービッド・ファラデーとベティー・ジェンセンが通っていた高校の出身だった。被害者のダーリーン・フェリンと同じレストランで働いていたとされる。1971年から1973年の間、マイヤーズは軍役で海外に駐在していたが、この時期はゾディアックからの手紙が届かなかった。ケニーによれば、マイヤーズがカップルを標的としたのは、恋人との関係が悪くなって別れたためであると告白したという。事件に関係した警察官はケニーの主張を懐疑的に見ているが、ケニーが確かな証拠を用意できれば、捜査するだけの説得力はあると考えている.[131]。
ロバート・イヴァン・ニコルズ(英: Robert Ivan Nichols、ジョセフ・ニュートン・チャンドラー3世(英語版) <英: Joseph Newton Chandler III>)
2014年、ゲアリー・ステュワート(英: Gary Stewart)がThe Most Dangerous Animal of Allという書籍を出版した。この書籍で、ステュワートは実父であるアール・ヴァン・ベスト・ジュニアを捜索した結果、ヴァン・ベストがゾディアックであると気が付いたと主張した。その理由として、犯人のモンタージュ画の顔がそっくりである点に加え、犯行声明文に『ミカド』からの引用文があるが、著者の祖父はメソジスト系の海軍従軍牧師であり[135]、戦前まで青山学院を本拠地に宣教活動をしていた。さらにアールは両親とともに日本で暮らした経験があり、『ミカド』の一節をよく口ずさんでいたという親戚の証言があること、戦時中日本軍の暗号解読の任務についていた祖父の影響で、実父も暗号作りの遊びをよくしていたこと、被害女性たちが著者の実母に似ていること、指紋の傷が同じであることなどを挙げている。同書では父親がゾディアックであるという確証は示されていない。だが、2017年、日本のテレビ番組『奇跡体験!アンビリバボー』[136]において、これらに加えてDNA鑑定と筆跡鑑定を行っていることを明かした。警察に依頼したDNA鑑定の結果は知らされておらず、民間の鑑定人に依頼した筆跡鑑定については、「同一人物である可能性が非常に高い」との結果を得ていると言う。2020年、The Most Dangerous Animal of AllがFXでドキュメンタリー・シリーズとして翻案された[137]。
エドワード・エドワーズは1977年から1996年にかけて5人を殺害した。元刑事で未解決事件を担当していたジョン・A・キャメロン(英: John A. Cameron)は、エドワード・エドワーズをゾディアック事件などの数件の未解決事件と関連付けた。キャメロンの説は特に法的執行機関から見向きもされなかった[140]。
元刑事のスティーブ・ホーデル(英: Steve Hodel)は自著The Black Dahlia Avengerで、自分の父親であるジョージ・ホーデルがブラック・ダリア事件の犯人であると主張した[141]。この書籍により、以前は非公開だったファイルやワイヤレコーディングがロサンゼルス郡検事事務所により公開された。これにより、ジョージ・ホーデルは実際にブラック・ダリア事件の主要な被疑者だったことが明らかになった。その後、地方検事のスティーブ・ケー(英: Steve Kaye)が手紙を書き、この手紙が改訂版に収録された。手紙には、ジョージ・ホーデルが存命であれば、ブラック・ダリア事件で起訴されていただろうと書かれていた[142]。スティーブ・ホーデルは追補する書籍で、ジョージ・ホーデルがゾディアックであることを示す状況証拠があると主張した。根拠として、警察の似顔絵、ゾディアックの手紙との類似点、筆跡鑑定を挙げている[143]。
I like killing people because it is so much fun. It is more fun than killing wild game in the forest because man is the most dangerous animal of all. To kill something gives me the most thrilling experience. It is even better than getting your rocks off with a girl. The best part of it is that when I die, I will be reborn in paradice and all that I have killed will become my slaves. I will not give you my name because you will try to slow down or stop my collection of slaves for my afterlife. ebeorietemethhpiti
I hope you are having lots of fun in trying to catch me. That wasn't me on the TV show, which brings up a point about me. I am not afraid of the gas chamber because it will send me to paradice all the sooner, because I now have enough slaves to work for me where everyone else has nothing when they reach paradice, so they are afraid of death. I am not afraid because I know that my new life is life will be an easy one in paradice death.
^Hodel, Steve (2009). Most Evil: Avenger, Zodiac, and the Further Serial Murders of Dr. George Hill Hodel. New York City: Dutton Adult. ISBN978-0-525-95132-2