ソビエト連邦の歴史
1917年の十月革命によって誕生したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、世界初の社会主義国家として知られ、後のソビエト連邦の基礎を確立している。およそ5年続いたロシア内戦の後、1922年12月30日に開かれた第1回全連合ソビエト大会においてソビエト連邦結成条約が締結されたことにより、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。 1924年1月には指導部を率いたウラジーミル・レーニンが早逝、その頃からはヨシフ・スターリンとレフ・トロツキーとのあいだで起きていた主導権爭いが表面に浮き彫りはじめ、トロツキーの側が排除されることでスターリンの有利に終わった。1936年に新憲法が制定されると、スターリンは大粛清を行い基盤をさらに強化する。この時代に全土規模の工業化が進められ、世界恐慌の影響さえも受けずにいたソビエト連邦は、1941年にナチス・ドイツの奇襲によって第二次世界大戦へ参戦し、1945年にドイツが降伏するとソビエト連邦は東欧一帯をその支配下に置き、周辺に社会主義国を樹立させ、第二次世界大戦の同盟国であったアメリカ合衆国と世界を二分した。 スターリンの死をきっかけに、ソビエト連邦は官民共同の刷新、躍進が行われることとなった。個人崇拝批判や平和共存、自治共和国の復権はいずれも50年代に成し遂げられたものであり、1960年代には81カ国共産党・労働者党代表者会議をモスクワで開催、米ソで競争を繰り広げた宇宙開発では世界初の有人宇宙飛行の成功を収めた。しかし、フルシチョフに続く四半世紀の間のソビエト連邦は、支配強化と経済停滞を経験する。1968年のチェコスロヴァキア侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻は、ソビエト連邦と親善にある社会主義諸国に激震が走り、また、当時の最高指導者レオニード・ブレジネフが社会主義全体の利益のための一国の主権制限を事実上容認したことによって、アルバニアのワルシャワ条約機構脱退、中ソ国境紛争などを招いた。しかし、ソビエト連邦は同時期にアフリカへの関与を強め、アンゴラの独立、モザンビークの独立を支援した。これら諸国に対する援助は莫大なものになり、停滞するソ連経済を圧迫することとなる。 1980年、東欧はポーランドで反乱が発生し、チェコスロヴァキアのような武力介入こそはなかったものの、ソビエト連邦は激しい干渉を行い鎮圧する。ほどなくユーリ・アンドロポフによる支配へ替わり、ソビエト連邦の中では汚職撲滅が盛んとなる。やがて自身の基盤を安定させたアンドロポフだが、病に侵された身体は激務によって一層の衰弱を起こし死亡。1984年にアンドロポフの後任としてコンスタンティン・チェルネンコが政権を握ったが、こちらも老齢であったため1年も持たずに亡くなった。 1985年、ミハイル・ゴルバチョフが55歳の若さで最高指導者に君臨すると、さかんな内政や外交への改革政策などでその手腕を表し始める。当時よりソ連各地で事故が起こっていたことに不満を抱いていたゴルバチョフは、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故で早急の改革を決断。しかしこの改革は、中央指導部、そして地方指導部では警戒を招くこととなり、後のゴルバチョフが改革派・保守派両側から挟まれる原因にもなった。外交面では1987年以降、積極的に冷戦緩和へと動き始め、アメリカとの中距離核戦力全廃条約締結、ドイツ統一条約への根回し、マルタ会談ではソビエト連邦は冷戦の終結を宣言した。 外交面で成果を収めたソビエト連邦であったが、内政では1988年以降、ソビエト連邦を構成するエストニアが主権宣言を採択したことにより他の構成国もこれに続いて主権を宣言する事態に発展。その後も、ソ連中央と構成国との軋轢、ソビエト連邦以前の歴史問題を発端とした構成国と構成国との衝突は激化する一方で、連邦の存在そのものが大きく問われることとなる。 1991年には、ソビエト連邦という機構そのものを見直すために1922年連邦条約に替わる新連邦条約が締結されるはずであったが、改革派とともにゴルバチョフとの関係が険悪であった保守派によって中断されてしまう。その後、構成国は総じてソビエト連邦から離脱することを決め、同年12月のロシア、ウクライナ、白ロシアの三国が独立国家共同体創設合意によりソビエト連邦存続の可能性は完全に途絶えてしまう。12月25日、ゴルバチョフは自身の辞任を表明、翌26日にソビエト連邦の存在の終了は決議され、69年の歴史に幕を下した。 連邦を構成していた諸国はいずれも主権国家としてそれぞれに道を進むも、急激な変化による情勢の混乱は避けられなかった。ロシアでは1993年、新憲法制定をめぐって大統領と最高会議が衝突、タジキスタンでは独立から1997年までにイスラーム勢力との内戦、アルメニアとアゼルバイジャンは、両国の間に位置するナゴルノ・カラバフをめぐって戦争状態に陥り、現在に続く対立関係がある。 ※ 本稿では、1918年2月1日より日付はグレゴリオ暦による。 ソビエト連邦の形成まで血の日曜日事件→詳細は「血の日曜日事件 (1905年)」を参照
1917年の二度にわたる革命の総稽古であり、それなしには十月革命の成功は考えられないと言われる{{第一次ロシア革命の勃発の合図となったのが血の日曜日事件である[1]。
帝政崩壊後の情勢十月革命ペトログラードの武装蜂起10月24日[注 2]午前5時半、臨時政府の側にある士官学校生徒の一隊は『ラボーチイ・プーチ[注 3] 』の印刷所に突入し、あらゆる機材および新聞を破壊・強奪した。それとともに臨時政府はペトログラード軍事革命委員会のコミッサールと委員を逮捕し、ボリシェヴィキ本部の置かれるスモーリヌイ女学院を占領するよう命令、午後にはボリシェヴィキ本部(スモーリヌイ)の置かれる地区の労働者を逃すため、接続するニコラエフスキー橋、ドヴォルツォヴィ橋及びリテイヌイ橋の往来を解放を決定した[2]。 武装蜂起の準備を終えつつあったボリシェヴィキ内部では、印刷所の占拠、軍事革命委員の一斉逮捕の報が入り次第、すぐさま制圧された印刷所に警備隊を派遣し『ラボーチイ・プーチ』の発行を再開させるよう同委員会へ委任した[注 4]。委任を受けた委員会は、午前10時までに印刷所へ部隊を派遣させる。部隊の迅速な作業により1時間も経たずに再稼働した印刷所は、早速記事を発行する。発行した記事には、「臨時政府を打ち倒せ!」「全権力をソビエトへ!」の見出しがおどった。 1920年代1930年代新憲法の制定へ1936年12月5日に始まった第8回全連合ソビエト大会は、カリーニン中央委員会幹部会議長の宣言をもって開かれた。宣言のなかでは、1918年ソビエト=ロシア憲法施行以降にソビエト政権が採択した個々の決議[注 5]が1924年憲法に明記されなかったこと、これらの決議を新憲法の制定をもって明記することを唱える。 1940年代1950年代1960年代1960年代のソビエト連邦は、各国共産党もしくは労働党が一堂に会した81カ国共産党・労働者党代表者会議を主催し(1960年)、アメリカとの競争の末に人類初の有人宇宙飛行を成功させる(1961年)。栄華を極めた1960年代の前半期である一方、その後半では旧機構への激しい回帰が始まり、フルシチョフ政権とは真逆の姿勢へと転じる。 世界初の有人宇宙飛行→詳細は「ボストーク1号」を参照
1961年4月12日、ユーリイ・ガガーリンを乗せたボストーク1号(Восток-1)は、バイコヌール宇宙基地より発射された。この機体は発射からおよそ10分を経て大気圏を突破し、地球を丸一周する。 飛行成功から1年を迎える1962年4月9日、最高会議幹部会はこの日を宇宙飛行士の日と定めた[3]。 旧機構への回帰フルシチョフの電撃辞職1964年10月12日、アブハジアはピツンダで保養を受けているフルシチョフに、臨時召集の一報が入る。この一報はブレジネフからのものであり、フルシチョフはすぐさまモスクワへ帰った。
3日にわたる総会の末、フルシチョフは自発的にあらゆる役職から辞任する[5][4]。 ソ連共産党23回大会ブレジネフの第一書記就任後初となる1966年のソ連共産党第23回大会では、フルシチョフの外交政策「平和共存」を踏襲したが、内政においてはフルシチョフの施策を否定した[6]。すなわち、この大会ではフルシチョフ時代に改組された党機関とソ連執行機関を旧に復するとともに、党規約をも改正して政治局の名称を復活し、書記長制へと回帰したのである。 1970年代1980年代1980年代の10年間に起こった多くの事象はソビエト連邦という存在そのものの終焉に近づかせた。1980年のアレクセイ・コスイギンの死から始まった世代交代、ソ連外交の転換点の一つとなる大韓航空機撃墜事件(1983年)、ミハイル・ゴルバチョフの就任(1985年)。これら前半期の出来事に加え、1980年代後半にはチェルノブイリ原子力発電所事故(1986年)、中距離核戦力全廃条約(1987年)、ペレストロイカ(1988年)、マルタ会談(1989年)がそれぞれソ連邦を大きく揺るがすこととなる。 一つの世代の終焉1980年12月18日のアレクセイ・コスイギンの死と、1982年1月15日のミハイル・スースロフ第二書記、そして同年11月10日のブレジネフ書記長の死は、ソビエト連邦を治めた重役の死のみにならず、ポスト・フルシチョフという一つの世代が過ぎ去ったことを意味した[7]。3人はいずれもフルシチョフ政権において党中央へと出世し、その裏でフルシチョフの解任計画を立案したのである。 グルジアの異端的実験グルジア共和国書記長エドゥアルド・シェワルナゼが1979年に同国共産党へ置いた世論センターは、グルジア国土における事業の質を監視し、民衆からの不満な評価をもらった高官を解職するのに役立った[8]。その後にシュワルナゼが行った政策というのは、企業家の精神を有効に活用するための企業の自主管理、市場関係に基づいた価格設定、小規模企業の家族経営、闇企業の合法化などであり[9]、さらには文化芸術、報道全般の統制も緩める。 連邦の終焉詳細は「ソビエト連邦の崩壊」を参照 諸国の情勢
年表ソビエト連邦の歴史のうちに重要な出来事を列挙していく。
1982年
1985年
1986年 1988年 1991年 脚注注釈
出典
参考文献書籍
論文
外部リンク |