スズカドリーム
スズカドリーム(欧字名:Suzuka Dream、2000年3月28日 - 2005年3月18日)は、日本の競走馬[1]。 2003年の京成杯(GIII)優勝馬、サイレンススズカの甥にあたる。 経歴ワキアオブスズカは、1993年に生産された父ダンスオブライフ、母ワキアの牝馬である。永井啓弍が所有し、栗東トレーニングセンターの橋田満調教師の管理のもと、競走馬としてデビューし6戦2勝だった[4]。1歳下の半弟、サンデーサイレンス産駒のサイレンススズカも、同じ永井橋田タッグのもとデビューしている。サイレンススズカは、1997年のクラシックでは勝利を挙げることができなかったが、古馬になった1998年から6連勝、金鯱賞(GII)を大差で制したほか、宝塚記念を優勝していた。しかし連勝中で迎えた1998年天皇賞(秋)で失速し、競走を中止。左前脚の手根骨粉砕骨折しており、予後不良の診断が下された後、4歳で安楽死となっていた[5]。また母ワキアも、ワキアオブスズカやサイレンススズカを遺して、1996年に10歳で早世していた[5]。 引退したワキアオブスズカは、初年度となる1998年春はブライアンズタイムと交配、1999年に初仔となる牡馬を産んでいる。そして2年目となる1999年春は、サイレンススズカと同じサンデーサイレンスと交配された[6]。1年後の2000年3月28日、北海道平取町の稲原牧場にて、2番仔となる青鹿毛の牡馬(後のスズカドリーム)が誕生する[1]。 この2番仔は、同じく永井橋田タッグのもと競走馬となる[1]。永井は「サイレンス(スズカ)で見た夢を継げるような馬に出合ったらつけようと、温め続けた馬名[5]」を用いて「スズカドリーム」と命名する[5]。永井の冠名「スズカ」に「夢」を意味する「ドリーム」を組み合わせていた[3]。スズカドリームは、サイレンススズカの甥となる[7]。父が同じく、サイレンススズカの母と、スズカドリームの母母が同じであるため、2頭は4分の3だけ同じ血統構成だった[7]。サイレンススズカの人気を受け継ぎ、デビュー前からホームページが作成されるほどだったという[5]。 2002年11月2日、京都競馬場の新馬戦(芝2000メートル)に、サイレンススズカの晩期の主戦だった武豊が騎乗しデビューを果たす。1番人気に推されたが、ザッツザプレンティに及ばず2着だった[8]。後藤浩輝と臨んだ2戦目の新馬戦も2着、横山典弘と臨んだ3戦目、未勝利戦で初勝利を挙げた[8]。 年をまたいで3歳、2003年1月19日の京成杯(GIII)で重賞初出走を果たす。蛯名正義が初騎乗し、以後、引退まで蛯名が騎乗することとなる[8]。13頭立ての中、4番人気に推される。重賞優勝馬ブルーイレヴン、GI3着馬テイエムリキサン、2勝馬ブラックカフェに次ぐ人気だった。スタートから逃げたブルーイレヴンに対して、馬群を追走する。直線ではブルーイレヴンが失速し、それに代わって馬群から抜け出し先頭となった[9]。同時に抜け出してきたテイエムリキサンとの競り合いとなったが、テイエムリキサンを下して先着。1馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた[9]。蛯名は、前年をヤマニンセラフィムで制しており、京成杯連覇を果たした[5]。 続いてクラシック第一弾の皐月賞出走を予定していたが、直前で熱発のために回避[10]。仕切り直して青葉賞(GII)10着の後、東京優駿(日本ダービー)(GI)でクラシック出走を果たしたが、15着だった。以降は、脚部不安が祟って放牧、長期離脱となる[10]。東京優駿から1年以上経過し5歳となった2005年、3月に栗東へ帰厩[10]。調教を再開したが、直後に左第1指骨の粉砕骨折を発症し、予後不良となった[10]。2005年3月28日、5歳で安楽死に至る[2]。 競走成績以下の情報は、netkeiba.com[11]並びにJBISサーチ[8]の情報に基づく。
血統表
脚注注釈出典
外部リンク
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