ジロ・デ・イタリア (伊 : Giro d'Italia )は、毎年5月にイタリア 全土を舞台にして行われるプロ自転車ロードレース 。1909年 から開催されている。主催はイタリアのスポーツ紙 『ガゼッタ・デロ・スポルト 』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポルト社。
Giro d'Italia のイタリア語 での発音は「ジーロ・ディターリア 」である。
「ジロ・デ・イタリア」という表記は日本独特なものだが、最近は日本でもイタリア語が知られるようになったため、イタリア語の発音を基にした「ジーロ・ディターリア」や、「ジロ・ディ・イタリア 」という表記も見られるようになってきた[ 1] 。通称は「ジロ」。
概要
2008年のコース
毎年5月に約3週間かけて行われるステージレースで、コースは毎年新たに設定される。「イタリアを一周する」という表現がされることもあるが各ステージは地理的には連続していないことも多く、サルデーニャ島 やシチリア島 など島でのステージもある。ステージ数は通常21。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされている。
総合成績1位の選手にはピンク色のジャージ「マリア・ローザ 」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は年によって上下するが、2004年 の場合で約133万ユーロ 。配分は各ステージ25位までの勝者に支払われる金額が合計47万4000ユーロ。総合優勝者15万ユーロやインテルジロ賞13万ユーロなど各賞の合計が62万3000ユーロ。チームへの賞金が合計23万3000ユーロとなっている。
特徴
厳しい坂が続くステルビオ峠
ツール・ド・フランス に比べ勾配の厳しい坂を登る山岳ステージが多いため[ 2] 、上りを得意とするクライマーが活躍する機会が多い。1990年 のクラウディオ・キアプッチ や1995年 のトニー・ロミンゲル 、1998年 のマリアーノ・ピッコリ 、2003年 のジルベルト・シモーニ 、2009年 のダニーロ・ディルーカ 、2010年 のカデル・エヴァンス のように厳しい山岳コースが設定された年は山岳賞はおろかポイント賞 すらクライマーやオールラウンダーが獲得してしまうこともあるが、これは2013年まではツール・ド・フランス とは異なり山岳ステージも平坦なステージも同じポイントが設定されていたためでもある。また平坦ステージであってもゴール直前だけ上り坂であったり、ゴールまで1kmを切ったところに急カーブが登場するなど危険かつ癖のあるコースレイアウトがしばしば採用される。
また5月はドロミーティ を始めとしたアルプス山脈 及びアペニン山脈 にはまだ雪の残っている場所もあり、選手は坂だけでなく厳しい寒さや悪天候とも戦うことになる[ 3] 。そのためイタリア人からは「ツール・ド・フランスが世界最大のレースなら、ジロ・デ・イタリアは世界最高のレース」と評される。
イタリア人選手の多くがこのレースをシーズン中の最大目標としており、歴代優勝者に占めるイタリア人の割合も圧倒的に多い。イタリア以外の選手が初めて優勝したのが1950年 で、2017年現在31回しかない。近年は1997年 以降、2007年 までの総合優勝者はすべてイタリア人で、国際化が著しく優勝者の国籍も多様になる傾向があるロードレースの世界において、これは非常に珍しいケースである。
歴史
第1回大会は1909年 に行われミラノ から出発し、合計走行距離は2,408kmだった。8区間で争われ、優勝選手の平均走行時速27.26kmだった。1915年 から1918年 までは第一次世界大戦 により中断されている。
1933年 は17ステージ・合計3,343kmで行われ、この時はアルフレッド・ビンダ が通算5回目となる優勝を飾っている。
1941年 から1945年 までは第二次世界大戦 により再び中断。1947年 は19ステージ・合計3,843kmで行われ、この時はファウスト・コッピ が2回目の優勝を果たした。以後もコッピの活躍は続き、1953年 には史上2人めの5回目の優勝を達成している。
1970年代 前半はエディ・メルクス の独擅場となり、1972年 から1974年 には3連覇を達成。1974年は史上3人目となる5回目の優勝に加えてツール・ド・フランスと世界自転車選手権プロロードレース も制覇しており、史上初のトリプルクラウン 達成を遂げた。
1980年代 前半はベルナール・イノー が3回の優勝を遂げている。また1987年 の優勝者ステファン・ロッシュ は史上2人目のトリプルクラウン達成者となった。
1990年代 に活躍した選手としてはミゲル・インドゥライン とマルコ・パンターニ があげられインドゥラインは1992年 と1993年 、パンターニは1998年 にツール・ド・フランスでも優勝してダブルツールを達成している。
2004年 は合計走行距離3,423.9 km、20区間で行われ参加選手169名のうち140名が完走した。総合優勝は22歳の新人ダミアーノ・クネゴ 。ジルベルト・シモーニ のアシストとして働く予定だった彼がステージ4勝をあげて総合優勝するとは誰も予想しておらず、大きなニュースとなった。
2005年 はパオロ・サヴォルデッリ とシモーニの争いとなり、終盤シモーニが猛追するも結局サヴォルデッリが2002年 以来2度目の優勝を飾った。
2006年 はイヴァン・バッソ が他を寄せ付けない強さで、2007年 はダニーロ・ディルーカ が堅実なレース運びで総合優勝を遂げている。
2008年 は前年度のツール・ド・フランスを制したアルベルト・コンタドール がイタリア人以外では12年ぶりの総合優勝者となった。
2009年 はデニス・メンショフ がディルーカとの熾烈な争いを制して優勝した。
2010年 は相次ぐ大波乱の展開の末、バッソが2回目の総合優勝を飾った。
2011年 は第3ステージでワウテル・ウェイラント が落車により死亡する事故が発生し、第4ステージがノーコンテストステージとなる波乱があった。総合優勝は当初アルベルト・コンタドール が獲得したが、後にスポーツ仲裁裁判所(CAS)により2010年のツール・ド・フランス でのクレンブテロール 陽性を認定されて2年間の出場停止処分が下され、2011年の大会は出場停止期間中に該当するため成績無効となり、ミケーレ・スカルポーニ が繰り上がって総合優勝者に認定された。
2012年 は最終日の個人タイムトライアルでの逆転という劇的な形でライダー・ヘシェダル がカナダ 人初となるグランツール優勝を成し遂げた。
2013年 はヴィンチェンツォ・ニバリ が圧勝を収め、2014年 はナイロ・キンタナ が同胞のリゴベルト・ウラン との激戦を制しコロンビア人 選手として初のジロ総合優勝を飾る。
2015年 は区間優勝がないながらも堅実なレース運びでアルベルト・コンタドールが2度目の総合優勝を果たす。
2016年 はステーフェン・クラウスヴァイク の肋骨骨折による失速で混沌とした総合争いをヴィンチェンツォ・ニバリが制した。
2017年 は2012年と同様、最終日の個人TTでの再逆転でトム・デュムラン がオランダ 人初のジロ総合優勝を果たした。
2018年 はイスラエル のエルサレム からスタート。ヨーロッパ 外からのスタートは初となる[ 4] 。クリス・フルーム が激戦を制しグランツール で三連勝を達成した。
2020年 は当初5月9日からハンガリー での開幕を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大 の影響により延期され、10月3日から、開幕地をイタリアのシチリア島に移して開催された。[ 5]
第20ステージのスタート時点で、総合2位であったテイオ・ゲイガンハート がステージ優勝しボーナスタイムを得た結果、総合1位であったジェイ・ヒンドレーと総合タイムが並ぶ事になった。よって翌日の21ステージではグランツール史上初の最終ステージで総合1、2位が同タイムでスタートすることになった。
また、最終ステージの個人TTでヒンドレーにタイム差を付けフィニッシュし、総合優勝したゲイガンハートは、全ステージでマリアローザを着用することなく、最終ステージ終了後に初めてマリアローザに袖を通した。
2024年 の優勝者タデイ・ポガチャル は史上3人目のトリプルクラウン達成者となった。
各賞とリーダージャージ
数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じた色別のジャージがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利(と義務)を手にいれる。
マリア・ローザ(個人総合時間賞)
総合優勝者に贈られるトロフェオ・センツァ・フィーネ
ピンク色のジャージ「マリア・ローザ (Maglia Rosa)」は総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少ない選手が「マリア・ローザ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マリア・ローザ」着用の権利をもっている選手がジロの総合優勝者となる。色の由来はレース主催者のガゼッタ・デッロ・スポルトの紙面がピンクであるため。
マリア・チクラミーノ(ポイント賞)
紫色のジャージ「マリア・チクラミーノ (Maglia Ciclamino)」(シクラメン)は「ポイント賞 」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算されスプリントポイント1位の選手が「マリア・チクラミーノ」着用の権利を得る。以前はツール・ド・フランスと異なり平地ステージも山岳ステージもゴール地点で与えられるポイントは同じであった上に前述の通りスプリンターが活躍しづらいコース設定がされることも多く、山岳ステージを上位でゴールする総合成績上位のクライマーやオールラウンダーがこのジャージを獲得してしまうことも珍しくない[ 6] [ 7] 。ただし2014年 以降はツール・ド・フランスと同様、平地ステージで高ポイントを与える加点設定が行われている[ 8] 。1966年 に初登場。2010年からは「マリア・ロッソ」と呼ばれる赤色のジャージが使われ、非公式に「情熱の赤」を意味する「マリア・ロッソ・パッショーネ」とも呼ばれていた。2017年よりスポンサーがセガフレード・ザネッティ に変わり、元のマリア・チクラミーノに戻った。
マリア・アッズーラ(山岳賞)
青色のジャージ「マリア・アッズーラ (Maglia Azzurra)」は「山岳賞 」に対して与えられる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された[ 9] 山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マリア・アッズーラ」着用の権利を得る。1933年 から2011年 までの山岳賞 は緑色のジャージ「マリア・ヴェルデ 」であったが、2012年 から「マリア・アッズーラ」となった。かつて1989年 から2005年 までは「マリア・アッズーラ」は「インテル・ジロ賞」(後述)のジャージとして用いられていた。2015年のジャージスポンサーは「メディオラヌム銀行」。
マリア・ビアンカ(新人賞)
白のジャージ「マリア・ビアンカ (Maglia Bianca)」は「新人賞」に対して与えられる。開催年中に25歳以下[ 10] になる選手が対象となり各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マリア・ビアンカ」着用の権利を得る。2015年のジャージスポンサーはスーパーマーケットの「ユーロスピン」。
1976年 に初登場。1994年 以来消滅していたが、2007年 に復活した。
マリア・ネラ
黒のジャージ「マリア・ネーラ (英語版 ) 」はかつて総合成績最下位の選手に与えられた。1946年 に初登場し悪趣味、屈辱的などの理由で1952年 には廃止されたが1993年 にはレース中盤でダリオ・マリウッツォがジョークで着用して登場、2008年 にジャージではなく黒いゼッケン「ヌーメロ・ネロ」という形で復活した。同様のものに、ツール・ド・フランスにおける「ランタンルージュ 」がある。ちなみに1951年 にマリア・ネラを獲得したジョヴァンニ・ピナレッロ の興したバイクメーカーピナレロ から、同名の黒いジャージが発売されている。2019年に果敢な逃げなどで大会を盛り上げ、最下位完走を果たした初山翔 に主催者側からマリア・ネラが送られた。
そのほかの賞
特別なジャージはないが、コース中間に設定された地点の通過順位によるポイントを加算し、合計所要ポイントの最も多い選手には「個人総合中間スプリント賞」が与えられる(2008年の名称は、エキスポミラノ2015賞)。長距離をこなした後のスプリントや山岳コースでは勝ち目の無いトラックレース出身のスプリンターが狙ってくることが多い。
他にも総合成績・山岳・スプリントなどすべての賞で上位にいる選手に与えられる「敢闘賞(複合賞)」、ファウスト・コッピの名を冠した賞でその年の最大標高の山岳を1位で通過した選手に与えられる「チマ・コッピ賞」などその年ごとにさまざまな賞が設定される。また獲得ポイントの総合トップのチームに与えられる「スーパーチーム賞」、進路妨害や危険行為、ドーピングなどの不正行為がもっとも少ないチームに与えられる「フェアプレー賞」などチームを対象にした賞も設定される。
ちなみに中間スプリント賞と同様なものとして「インテルジロ賞」が存在し、こちらは順位によるポイントではなくその地点の通過時間の合計で争われていた。レース前半の展開を活性化させるために1989年 から設けられ、序盤からの逃げを得意とするスピードマンなどが狙ってくることが多かった。トップの選手は「マリア・アッズーラ 」と呼ばれる青いジャージを着用していたが、2005年 に廃止された。スプリント賞としての格はマリア・チクラミーノより上で、両方でトップに立った選手はマリア・アッズーラの着用を優先されていた[ 11] 。2006年 は複合賞に「マリア・ブル」という青いジャージが与えられたが、この年のみで姿を消している。2024年に通過時間ではなく獲得ポイントの賞として復活した[ 12] 。
用語
チマ・コッピ (英語版 )
同一年のジロのレース中で、最も標高の高い峠。前述の通りファウスト・コッピ にちなんだ名称である。
モンターニャ・パンターニ (イタリア語版 )
2004年 制定。1998年のジロ優勝者であるマルコ・パンターニ (2004年2月死去)にちなんで命名された。同一年のジロのレース中で、主催者側が「最も重要な山岳」と判断した地点に与えられる。
歴代総合優勝者
回
開催期間
総合優勝者
国籍
チーム
区間数
距離 (km)
平均速度 (km/h)
1
1909年 5月13日 ~30日
ルイジ・ガンナ
イタリア王国
アタラ・ダンロップ
8
2,445
27.260
2
1910年 5月18日 ~6月5日
カルロ・ガレッティ
イタリア王国
アタラ・コンチネンタル
10
2,984
26.113
3
1911年 5月15日 ~6月6日
カルロ・ガレッティ(2)
イタリア王国
ビアンキ
12
3,526
26.216
4
1912年 5月19日 ~6月2日
- (カルロ・ガレッティ) (ジョヴァンニ・ミケレット ) (エベラルド・パヴェージ )
イタリア王国
アタラ・ダンロップ
9
2,443
27.323
5
1913年 5月6日 ~22日
カルロ・オリアーニ
イタリア王国
マイノ
9
2,932
26.379
6
1914年 5月24日 ~6月7日
アルフォンソ・カルツォラーリ
イタリア王国
ストゥッキ・ダンロップ
8
3,162
23.374
第一次世界大戦のため中断
7
1919年 5月21日 ~6月8日
コスタンテ・ジラルデンゴ
ストゥッキ・ダンロップ
10
2,984
26.440
8
1920年 5月23日 ~6月6日
ガエターノ・ベローニ
ビアンキ
10
2,632
25.640
9
1921年 5月25日 ~6月12日
ジョバンニ・ブルネーロ
レニャーノ・ピレリ
10
3,107
25.592
10
1922年 5月24日 ~6月11日
ジョバンニ・ブルネーロ(2)
レニャーノ・ピレリ
10
3,095
25.856
11
1923年 5月23日~6月10日
コスタンテ・ジラルデンゴ(2)
マイノ
10
3,202
25.895
12
1924年 5月10日 ~6月1日
ジュゼッペ・エンリーチ
-
12
3,613
25.138
13
1925年 5月16日 ~6月7日
アルフレッド・ビンダ
レニャーノ・ピレリ
12
3,520
25.600
14
1926年 5月15日 ~6月6日
ジョバンニ・ブルネーロ(3)
レニャーノ・ピレリ
12
3,430
25.113
15
1927年 5月15日~6月6日
アルフレッド・ビンダ(2)
レニャーノ・ピレリ
15
3,756
25.850
16
1928年 5月12日 ~6月3日
アルフレッド・ビンダ(3)
ウォルシット・ピレリ
12
3,044
26.750
17
1929年 5月19日~6月9日
アルフレッド・ビンダ(4)
レニャーノ・トーピード
14
2,920
27.290
18
1930年 5月17日 ~6月8日
ルイジ・マルキジオ
レニャーノ・ピレリ
15
3,095
26.880
19
1931年 5月10日~31日
フランチェスコ・カムッソ
グローリア・ウッチンソン
12
3,012
29.330
20
1932年 5月14日 ~6月5日
アントニオ・ペゼンティ
ウォルシット・ウッチンソン
13
3,235
30.594
21
1933年 6月6日~28日
アルフレッド・ビンダ(5)
レニャーノ・クレメント
17
3,343
22
1934年 5月19日~6月10日
レアルコ・グエラ
マイノ・クレメント
17
3712.7
23
1935年 5月18日~6月9日
ヴァスコ・ベルガマスキ
マイノ・ジラルデンゴ
18
3,577
24
1936年 5月16日~6月7日
ジーノ・バルタリ
レニャーノ・ウォルシット
19
3,766
25
1937年 5月8日 ~30日
ジーノ・バルタリ(2)
レニャーノ
19
3,840
26
1938年 5月7日 ~6月2日
ジョヴァンニ・ヴァレッティ
フレジュス
18
3,645.8
27
1939年 4月28日 ~5月18日
ジョヴァンニ・ヴァレッティ(2)
フレジュス
17
3,011.4
28
1940年 5月17日~6月9日
ファウスト・コッピ
レニャーノ
20
3,574
第二次世界大戦のため中断
29
1946年 6月15日 ~7月7日
ジーノ・バルタリ(3)
レニャーノ・ピレリ
16
3,039.5
30
1947年 5月24日~6月15日
ファウスト・コッピ(2)
ビアンキ
20
3,843
31
1948年 5月15日~6月6日
フィオレンツォ・マーニ
ウィリエール・トリエスティーナ
19
4,164
32
1949年 5月21日~6月12日
ファウスト・コッピ(3)
ビアンキ・ウルサス
19
4,088
33
1950年 5月24日~6月13日
ユーゴ・コブレ
ゲラ・ウルサス
18
3,981
34
1951年 5月19日~6月10日
フィオレンツォ・マーニ
ゲラ・ウルサス
20
4,153
35
1952年 5月17日~6月8日
ファウスト・コッピ(4)
ビアンキ・ピレリ
20
3,964
36
1953年 5月12日~6月2日
ファウスト・コッピ(5)
ビアンキ・ピレリ
21
4,035.5
37
1954年 5月21日~6月13日
カルロ・クレリーチ
ゲラ・ウルサス
22
4,337
38
1955年 5月14日~6月15日
フィオレンツォ・マーニ(2)
グレマン・フックス
21
3,871
39
1956年 5月19日~6月10日
シャルリー・ゴール
ファエマ・ゲラ
22
3,523.45
40
1957年 5月18日~6月9日
ガストネ・ネンチーニ
レオ・クロロドン
21
3,926.7
41
1958年 5月18日~6月8日
エルコーレ・バルディーニ
レニャーノ
20
3,341.1
42
1959年 5月16日~6月7日
シャルリー・ゴール(2)
EMI
22
3,657
43
1960年 5月19日~6月9日
ジャック・アンクティル
ファインセック・ヘリエット
21
3,481.2
44
1961年 5月20日 ~6月11日
アルナルド・パンビアンコ
フィデス
21
4,004
45
1962年 5月19日~6月9日
フランコ・バルマミオン
カルパノ
21
4,180
46
1963年 5月19日~6月9日
フランコ・バルマミオン(2)
カルパノ
21
4,063
47
1964年 5月16日~6月7日
ジャック・アンクティル(2)
サンラファエル・ジタン・ダンロップ
22
4,119
48
1965年 5月15日~6月6日
ビットリオ・アドルニ
サルバラーニ
22
4,051
49
1966年 5月16日~6月9日
ジャンニ・モッタ
モルテーニ
22
3,976
50
1967年 5月20日~6月11日
フェリーチェ・ジモンディ
サルバラーニ
22
3,572
51
1968年 5月20日~6月12日
エディ・メルクス
ファエマ
22+P
3,917.3
52
1969年 5月16日~6月8日
フェリーチェ・ジモンディ(2)
サルバラーニ
23
3,851
53
1970年 5月18日~6月7日
エディ・メルクス(2)
ファエミノ・ファエマ
20
3,292
54
1971年 5月20日~6月10日
イェスタ・ペーテルソン
フェレッティ
20+P
3,567
55
1972年 5月21日~6月11日
エディ・メルクス(3)
モルテーニ
20
3,725
56
1973年 5月18日~6月9日
エディ・メルクス(4)
モルテーニ
20+P
3,801
57
1974年 5月16日~6月9日
エディ・メルクス(5)
モルテーニ
22
4,001
58
1975年 5月17日~6月7日
ファウスト・ベルトリオ
ヨルジュ・セラミカ
21
3,963
59
1976年 5月21日~6月9日
フェリーチェ・ジモンディ(3)
ビアンキ・カンパニョーロ
22
4,161
60
1977年 5月20日~6月12日
ミシェル・ポランティエール
フランドリア・ヴェレダ・ラティーナ アッシクラツィオーニ
22+P
3,884
61
1978年 5月7日~28日
ヨハン・デミュインク
ビアンキ・ファエマ
20+P
3,610.5
62
1979年 5月17日~6月6日
ジュゼッペ・サローニ
サイクリック・ボッテキア
19+P
3,301
63
1980年 5月15日~6月7日
ベルナール・イノー
ルノー・ジタン
22+P
4,025
64
1981年 5月13日 ~6月7日
ジョバンニ・バッタリン
イノックスプレン
22+P
3,895.6
65
1982年 5月13日~6月6日
ベルナール・イノー(2)
ルノー・エルフ・ジタン
22+P
4,010.5
66
1983年 5月12日~6月5日
ジュゼッペ・サローニ (2)
デル・トンゴ=コルナゴ
22+P
3,922
67
1984年 5月17日~6月10日
フランチェスコ・モゼール
GIS GELATI
22+P
3,808
68
1985年 5月16日~6月9日
ベルナール・イノー(3)
ラ・ヴィ・クレール
22+P
3,998.6
69
1986年 5月12日~6月2日
ロベルト・ヴィセンティーニ
カレラ
22+P
3,858.6
70
1987年 5月21日~6月13日
ステファン・ロッシュ
カレラ
22+P
3,915
71
1988年 5月23日~6月12日
アンドリュー・ハンプステン
セブンイレブン
21
3,579
72
1989年 5月21日~6月11日
ローラン・フィニョン
スーパーU
22
3,418
73
1990年 5月21日~6月11日
ジャンニ・ブーニョ
CHATEAU D'AX
19+P
3,450
74
1991年 5月26日 ~6月16日
フランコ・キオッチョーリ
デル・トンゴ
21
3,715
75
1992年 5月24日~6月14日
ミゲル・インドゥライン
バネスト
22
3,843
76
1993年 5月23日~6月13日
ミゲル・インドゥライン(2)
バネスト
21
3,702
77
1994年 5月22日 ~6月12日
エフゲニー・ベルツィン
GEWISS-BALLAN
22
3,730
78
1995年 5月13日~6月4日
トニー・ロミンゲル
マペイ-GB ラテキスコ
22
3,736
79
1996年 5月18日~6月9日
パヴェル・トンコフ
パナリア
22
3,990
80
1997年 5月17日~6月8日
イヴァン・ゴッティ
サエコ・エストロ
22
3,912
81
1998年 5月17日~6月7日
マルコ・パンターニ
メルカトーネ・ウノ
22+P
3,868
82
1999年 5月15日~6月6日
イヴァン・ゴッティ(2)
チーム・ポルティ
22
3,757
83
2000年 5月13日~6月4日
ステファーノ・ガルゼッリ
メルカトーネ・ウノ
21+P
3,676
84
2001年 5月19日~6月10日
ジルベルト・シモーニ
ランプレ
21+P
3,356
85
2002年 5月11日 ~6月2日
パオロ・サヴォルデッリ
インデックス
20+P
3,354.5
86
2003年 5月10日~6月1日
ジルベルト・シモーニ(2)
サエコ
21
3,476.5
87
2004年 5月8日 ~30日
ダミアーノ・クネゴ
サエコ
20+P
3,423.9
88
2005年 5月7日~29日
パオロ・サヴォルデッリ(2)
ディスカバリー・チャンネル プロ・サイクリングチーム
20+P
3,447.15
89
2006年 5月6日 ~28日
イヴァン・バッソ
チーム・CSC
21
3,526.2
90
2007年 5月12日~6月3日
ダニーロ・ディルーカ
リクイガス
21
3,486
91
2008年 5月10日 ~6月1日
アルベルト・コンタドール
アスタナ
21
3,407
92
2009年 5月9日 ~31日
デニス・メンショフ
ラボバンク
21
3,456.5
93
2010年 5月8日 ~30日
イヴァン・バッソ(2)
リクイガス・ドイモ
21
3,485
94
2011年 5月7日 ~29日
ミケーレ・スカルポーニ [ 13]
ランプレ・ISD
21
3,434
95
2012年 5月5日 ~27日
ライダー・ヘシェダル
ガーミン・バラクーダ
21
3,502.1
96
2013年 5月4日 ~26日
ヴィンチェンツォ・ニバリ
アスタナ・プロチーム
21
3,405
97
2014年 5月9日 ~6月1日
ナイロ・キンタナ
モビスター・チーム
21
3,445.5
98
2015年 5月9日 ~31日
アルベルト・コンタドール (2)
ティンコフ・サクソ
21
3,481.8
99
2016年 5月6日 〜29日
ヴィンチェンツォ・ニバリ(2)
アスタナ・プロチーム
21
3,463.15
100
2017年 5月5日 〜28日
トム・デュムラン
チーム・サンウェブ
21
3,609.1
101
2018年 5月4日 〜27日
クリス・フルーム
チーム・スカイ
21
3,572.4
102
2019年 5月11日 〜6月2日
リチャル・カラパス
モビスター・チーム
21
3,546.8
103
2020年 10月3日 〜10月25日
テイオ・ゲイガンハート
イネオス・グレナディアス
21
3,361.4
104
2021年 5月8日 〜5月30日
エガン・ベルナル
イネオス・グレナディアス
21
3,410.9
105
2022年 5月6日 〜5月29日
ジャイ・ヒンドリー
ボーラ=ハンスグローエ
21
3,445.6
106
2023年 5月6日 〜5月28日
プリモシュ・ログリッチ
チーム・ユンボ・ヴィスマ
21
3,489.2
107
2024年 5月4日 〜5月26日
タデイ・ポガチャル
UAE チーム・エミレーツ
21
3,317.2
41.865
108
2025年 5月9日 〜6月1日
サイモン・イェーツ
チーム・ヴィスマ・リースアバイク
21
3,443.3
44.614
第4回のみ総合優勝はチームに与えられた。
区間数に「+P」を記載の回次は、ステージに数えないプロローグステージを実施。
区間優勝回数
マリオ・チポリーニ 42勝(1989年~2004年)
アルフレッド・ビンダ 12勝(1927年)
日本人選手
日本での放送
関連項目
参考文献
砂田弓弦 『GIRO(ジロ) イタリア一周自転車ロードレース写真集』未知谷 、2002年
安家達也 『ジロ・ディ・イタリア 峠と歴史』未知谷、2009年
脚注
外部リンク
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